「ピンク・フラミンゴ」
「ゾンビ」の次は、悪趣味映画の誉れ(?)高き迷作、
ピンク・フラミンゴについて書いてみる。
ピンク・フラミンゴについて書いてみる。
あらすじ:
バブス・ジョンソンという偽名を使って潜んでいる悪党ディヴァインは、
卵しか食べない母親のエディ、不良息子のクラッカー、覗き趣味のある娘のコットンと共に、
ボルティモア(?)郊外のトレーラーハウスに住んでいた。
ある日、ディヴァインは週刊誌によって「世界で最も下品な人間」と評される。
それに腹を立てたマーブル一家と呼ばれる変態家族は、ディヴァインたちに宣戦布告を行う。
マーブル一家は、女性を拉致しては手下を使って妊娠させ、女性が産む子供を人身売買に
かけていた。
ディヴァインたちが居ないあいだにマーブル一家は彼ら(彼女ら???)のトレーラーハウスを
襲撃、それに激怒したディヴァインたち変態家族はマーブル一家の自宅に報復に向かう。
マーブル夫妻はディヴァインによって処刑された……。
スーパー・マツコ・デラックスみたいなキャラクター「ディヴァイン」が
活躍(?)するカルト・コメディ……
……はっきりいって、理解できない。
コメディというが、笑えないし、直視できない。
どういうわけでこの映画が作られたのか、本当に意味不明。
とくに、ラストシーンでディヴァインが野良犬の○○を食べるところは……。
いったい、誰得の映画なの!!!
…と文句をたれるのは楽な道である。
この映画がどうしてあれほどまでに悪趣味を貫いたのか、考えてみた。
結論。
「表現への自由」に対する挑戦だろう…たぶん。
性器やゲロ、犬の○○はすべて小道具ではなくて本物のようだ。
そういうものを望む人はその手のマニア以外はほとんどいないだろう。
トイ・ストーリーやスター・ウォーズなどの一般大衆向きの映画を好む、
やはり一般大衆の人は100%見ないだろうし、勧められても見たくないだろう。
どうして、こいつは焼却処分を受けないのだろうか、と思う。
ネクロマンティックは本国ドイツではエラいことになったというのに……。
表現の自由
そもそも、そんなものあるのだろうか?
歴史を振り返ると、自由は常に権力の規制の対象となっている。
「自由は果てしない」とか、そういった言葉をどっかできいたことがあるが、
権力は自由をどこまでも抑圧するものだと思う。
自由という言葉
聞こえはいいが、それが行き過ぎるととんでもないことになる。
自己の自由を拡張するために、他人の自由ないし権利を侵害することも。
果てしないがゆえにボーダーラインが見えない。
権力による規制とは、自由を行き過ぎないようにするためのラインなのかも
しれない。
対比の言葉としての「抑圧」「規制」
どちらもいいイメージがない。いいイメージをもたらす「自由」の反対語に
あるからだろうか。
閑話休題、話をピンク・フラミンゴに戻すとしよう。
さっきも言ったが、誰得?の映画である。
大衆向けの映画ではけっしてない。ということは芸術性を求めたものなのだろうか?
じゃ、芸術とはなんなんだろか?
……この映画を芸術的作品として括れば、なんとなくこの映画の存在を容認できる気がする。
芸術という言葉からは「高尚なイメージ」が感じられるからだ。
けれど、やはり、この映画が「悪趣味であること」はどうしても払拭できない。
…なんか、考えるのが面倒くさくなった。
とりあえず、マトモな人間は見るべからず、とでも言っておこう。
さっき、ネクロマンティックの名前を出したんで、あれのことについて次は
書いてみようかな!?!?
(↑)皆さまの清き一票をどうか!!!
バブス・ジョンソンという偽名を使って潜んでいる悪党ディヴァインは、
卵しか食べない母親のエディ、不良息子のクラッカー、覗き趣味のある娘のコットンと共に、
ボルティモア(?)郊外のトレーラーハウスに住んでいた。
ある日、ディヴァインは週刊誌によって「世界で最も下品な人間」と評される。
それに腹を立てたマーブル一家と呼ばれる変態家族は、ディヴァインたちに宣戦布告を行う。
マーブル一家は、女性を拉致しては手下を使って妊娠させ、女性が産む子供を人身売買に
かけていた。
ディヴァインたちが居ないあいだにマーブル一家は彼ら(彼女ら???)のトレーラーハウスを
襲撃、それに激怒したディヴァインたち変態家族はマーブル一家の自宅に報復に向かう。
マーブル夫妻はディヴァインによって処刑された……。
スーパー・マツコ・デラックスみたいなキャラクター「ディヴァイン」が
活躍(?)するカルト・コメディ……
……はっきりいって、理解できない。
コメディというが、笑えないし、直視できない。
どういうわけでこの映画が作られたのか、本当に意味不明。
とくに、ラストシーンでディヴァインが野良犬の○○を食べるところは……。
いったい、誰得の映画なの!!!
…と文句をたれるのは楽な道である。
この映画がどうしてあれほどまでに悪趣味を貫いたのか、考えてみた。
結論。
「表現への自由」に対する挑戦だろう…たぶん。
性器やゲロ、犬の○○はすべて小道具ではなくて本物のようだ。
そういうものを望む人はその手のマニア以外はほとんどいないだろう。
トイ・ストーリーやスター・ウォーズなどの一般大衆向きの映画を好む、
やはり一般大衆の人は100%見ないだろうし、勧められても見たくないだろう。
どうして、こいつは焼却処分を受けないのだろうか、と思う。
ネクロマンティックは本国ドイツではエラいことになったというのに……。
表現の自由
そもそも、そんなものあるのだろうか?
歴史を振り返ると、自由は常に権力の規制の対象となっている。
「自由は果てしない」とか、そういった言葉をどっかできいたことがあるが、
権力は自由をどこまでも抑圧するものだと思う。
自由という言葉
聞こえはいいが、それが行き過ぎるととんでもないことになる。
自己の自由を拡張するために、他人の自由ないし権利を侵害することも。
果てしないがゆえにボーダーラインが見えない。
権力による規制とは、自由を行き過ぎないようにするためのラインなのかも
しれない。
対比の言葉としての「抑圧」「規制」
どちらもいいイメージがない。いいイメージをもたらす「自由」の反対語に
あるからだろうか。
閑話休題、話をピンク・フラミンゴに戻すとしよう。
さっきも言ったが、誰得?の映画である。
大衆向けの映画ではけっしてない。ということは芸術性を求めたものなのだろうか?
じゃ、芸術とはなんなんだろか?
……この映画を芸術的作品として括れば、なんとなくこの映画の存在を容認できる気がする。
芸術という言葉からは「高尚なイメージ」が感じられるからだ。
けれど、やはり、この映画が「悪趣味であること」はどうしても払拭できない。
…なんか、考えるのが面倒くさくなった。
とりあえず、マトモな人間は見るべからず、とでも言っておこう。
さっき、ネクロマンティックの名前を出したんで、あれのことについて次は
書いてみようかな!?!?
(↑)皆さまの清き一票をどうか!!!
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