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「太陽の牙ダグラム」についての考察

劇場版をのぞく全75話を観賞した。
今回はまとめの感想を考察も兼ねて述べたいと思う。






「太陽の牙ダグラム」についての考察

1、ふたりの“子供”の物語としてのダグラム

2、階段から落ちた男

3、大人になるための“敗北”

4、さらばやさしき日々よ






1、ふたりの“子供”の物語としてのダグラム

最初の1、2クールは主人公であるクリン・カシムとその仲間たち、
太陽の牙のメンバーに主軸を置いた物語であった。それがパルミナ篇以降、
政治劇へシフトチェンジを行い、60~70話はほぼ完全にラコックが主役と
化し、太陽の牙の存在は戦闘シーン以外では色薄いものとなっている。

クリン・カシム。
彼は地球連邦評議会議長ドナン・カシムの息子でありながら、反連邦勢力、すなわち
ゲリラ(のちの解放軍)に身を投じ、父と敵対している。父の死が描かれる第69話で
ふたりは久しぶりの対面を果たし、和解したかにみえるが、互いが妥協することはなかった。
父には父の、子には子の正義があったのだ。二人の対立から、本作は「父と子の物語」とも
定義できるが、その物語はドナン・カシムの死によって完結する。クリンにとって、ドナンは
父であり、また敵であった。クリンは、そんなドナンを失ったことで戦う理由がなくなったのだ。
実際、次話の『武装放棄』では完全に戦争が終わっている。そして、彼は新たな敵と戦うことと
なる。それがヘルムート・J・ラコックだ。

ドナンが病に倒れるまでのあいだ、ラコックは彼の補佐官(秘書のようなもの)であり、
権力者の腰巾着に過ぎなかった。それがドナンが病床に入ったことで変わり、彼はドナン以上の
やり手として独自に権力基盤を拡大していったのだ。解放軍と連邦の和平協定の仕掛け役も彼で
あるが、それが判明するのは、つまりラコックがクリンの敵となるのは最終話に近づいた頃である。
政治劇に関与していないクリンたち前線の兵士は、カルメルやデスタン、ラコックたちのやりとりが
分からないのである。

クリンとドナンには、明確な対立――思想・信条における対立があった。
では、クリンとラコックにおける対立とは何か。答えは明確である。
ラコックもクリンと同じく“ドナン・カシム”の子なのだ。

知っての通り、クリンはカシム家の末子であり、ドナンとは直接の血のつながりがある。
一方のラコックは、たんなる補佐官に過ぎない。いわば赤の他人である。
なのに、どうしてラコックもドナンの子であると定義できるのか。
それは、クリンが政治劇に関与していない人間ということを読めばわかる。

クリンは自分自身の力で何かを為すという精神をドナンから受け継いだ。また、劇中でも
末子であるクリンを長男・次男以上にドナンが高く買っている描写がいくつもある。
だが、クリンにはドナンから引き継がなかった面がある。それが政治的な素質だ。
彼は戦士であり、政治劇がメインの話ではセリフも一言二言である。
一方のラコック。彼にはクリンのように直接行動は起こさない。何でも誰かに命令をして
行う。しかし、クリンにはない政治的素質を持っている。そして、それはカシム家を崩壊へと
追いこんでもいる。彼は、クリンが受け継ぐはずであった政治的なエッセンスを持っている。
しかし、精神的なもの――つまり、倫理観・モラルというべきもの――は欠如しているのだ。

どちらも何らかのエッセンスが抜きんでており、それが物語を展開させていく。
また、二人はどちらもドナン・カシムに近い存在である。
立場や地位、そして状況などは違えども、上記のような二人には共通点がいくつも存在する。
これらのことから言いたいこと、つまりこの時点での結論は、クリンとラコックは鏡のような
表裏の関係にあるのではないか、ということだ。


2、階段から落ちた男

ラコックにはドナンのもうひとりの子供=クリンのライバルとしての役割があると
いう観点に基づいて最終話に目を向けると、おそらく誰も納得しないだろうと思う。
というのも、ラコックとクリンは直接対決を果たすことなく(まともな対面もしなかった)、
ラコックはデスタンに暗殺されてしまうのだから。ふつう、ライバルや敵という関係ならば
どこかで刃を合わせるのが物語の基本といえる。しかし、前述の通り、二人にはその機会がない。
だが、それでも、二人の要素を見れば、やはりライバルの関係にあるのだ。

そんな、クリンのライバル、ラコックはなぜ殺されたのか。そもそも、どうしてあのタイミングで
デスタンが登場したのか。

酷な言い方だが、あの場面でのデスタン登場はご都合主義ともいえる。
クリンをはじめ、太陽の牙には彼を倒し、物語の主導権を握る力がすでになかったのだ。
第69話の時点で、解放軍とその周辺の敗北は確定しているわけなのだから。
だから、ラコックは勝者といえる。反対にクリンは敗者と。そんな勝者であるラコックは
数発の銃弾に撃ち抜かれ、階段を落ちた。

物語論的に、階段を上るという動作は特定の登場人物の隆盛をあらわす。
OVA版の銀河英雄伝説では、主人公のラインハルトが階段を上る中、彼と敵対関係にあった
軍の元帥が階段を降りて行く。それによってラインハルトに力がついたこと、逆に元帥が
衰退したことをナレーションを用いずに明らかとしているのだ。

では、ラコック暗殺シーンはどうであったか。彼は階段を上っていた。
それは勝利者の、力ある人間のエネルギーの推移を映像としてあらわすものであった。
しかし、彼は銃弾を浴び、落ちて死ぬ。

落ちて死ぬのは、階段を上ることの逆の意味をあらわす。彼は勝利者から敗北者に転落したのだ。
しかも、デスタンという脇役(それもかなりマイナス要素のある人間)によって。

あの場面、つまりラコックを殺すことじたいはほかのキャラクターでも行う事が出来た。
どうしてデスタンがチョイスされたのか。そうなる展開に仕向けられただけと考えるのは
あまりに芸がなさすぎる。思うに、彼がある種の最下層の立場にあったから、ラコック殺害という
使命を物語において与えられたのではないか、と考える。ラコックは勝者の階段を少しずつ上っては
いたが、根本はデスタンと同じく最下層の、言い換えればマイナスの存在なのだ。だから死んだ。

そして、ラコックを“マイナス”の人間として解すると、自動的にクリンはプラスの人間と化す。
まさに陰と陽の関係である。これにより、物語は対立からひとりの少年が大人へと成長する展開へと
シフトチェンジしていく。


3、大人になるための“敗北”

第71話から最終話である75話は太陽の牙の苦闘の物語である。
戦争という大きなテーマが終息したにもかかわらず、彼らのカタルシスが解放されることはない。
悶々とした数話がつづくこととなる。

彼らは体制に反発し、“かつて”の指導者を迎えるが、何の得にもなからかった。
それまで、リーダーであるサマリンは生気にあふれた人物であったが、それが変貌したのだ。
第73話『沈黙する指導者』では若者たちの不満が一挙にサマリンにぶつけられる。

これまでサマリンはリーダーであった。リーダーというのは組織の役柄的な意味もあるが、
それ以上に指南役という立場のほうが強い。彼は太陽の牙の面々を理論的にも指導してきた。
しかし、終盤になってその要素を手放し、そして死んだ。

サマリンはカルメルのやり方に、感情的には不満を持っていたが、理性においては
認めざるを得なかった。だが、彼の教え子であった太陽の牙は納得できなかった。
その理由は、74話におけるカルメルとのやりとりが明らかとしている。
彼は太陽の牙の理解者であったが、それ以前に大人なのである。本作の、というより、
若者たちにとって大人とは敵対する存在であり、夢を持たない、冷たい現実に生きる
生物である。大人には現実に屈するという能力があるが、若者にはそれがない。
ずっと理想を追いかけようとするのだ。だから、牙を失ったサマリンを罵るほかなかったわけで
ある。しかし、若者が、子供がいつまでもその立場にいられることはない。人間は何もしなくても
年をとっていく。大人にならざるをえないのだ。

太陽の牙が大人になるまでの過程、それこそがあの71~75話なのである。
これまで、クリンたちはずっと指導者を慕ってきた。それが、この話になって変わる。
バックスやJロック、そしてサマリンは目の敵となるのだ。だが、サマリンが死んだことで
反発する、怒りのはけ口はなくなってしまった。それだけでなく、体制(カルメル)にぶつかる
術までも失ってしまったのだ。太陽の牙は、そのフラストレーションを抑制されたのだ。

抑制された彼らが取るべき道は、それを我慢して前に進むほかない。
だから、そんな彼らはダグラムと武器を燃やしたのだ。それは完全なる敗北ともいえる。
第69話が体制的な敗北であるとしたならば。

しかし、物語は敗北によってクライマックスを迎えたわけではない。
そこが重要だ。彼らにとって、敗北はスタートラインに過ぎない。ダグラムは彼らの
青春と理想のの象徴であった。それが燃え尽きたことで、彼らは大人への階段を
上ることになったのだ。ラストにおけるクリンと母親の対面はそれをあらわしているのでは
ないだろうか。


4、さらばやさしき日々よ

物語全部を見た後で、オープニングテーマを考えてみる。
サビの部分における
“さらばやさしきひびよ”“もう戻れない”“もう帰れない”とは、
主人公であるクリンがカシム家にはもどれないことを映像と合わせて訴えていた。

しかし、承知の通り、最終回では彼はカシム家に戻っている。
そこから考えていきたい。あのサビの部分はいったい何をあらわしているのか。

単純に、クリンがゲリラに入る以前の状況にもどることができないことを
あらわす…と解釈できる。だが、全体をみると、その考えは妥当ではないと思う。

思うに、あのサビは青春の日々をあらわしているのではないだろうか。
ダグラムとともに戦ってきた太陽の牙にとって、ゲリラとしての戦いの日々は
理想を追いかける日々であった。それはまさに青春である。しかし、その青春と
最終回において決別を果たした。自分たちの手によって。

“さらばやさしきひびよ”

“もう戻れない”

“もう帰れない”

“太陽の牙ダグラム”


この最後のフレーズ部分を区切ってみてほしい。

“さらばやさしきひびよ”

“もう戻れない”

“もう帰れない”

“太陽の牙、ダグラム” 



第1話冒頭のキャナリーの寂しそうな瞳。
あれは、もう彼らがあの頃にはもどれないことを示しているのではないだろうか。
そして、この主題歌はその見立てではないだろうか。

太陽の牙は解散し、ダグラムは砂漠に沈んだ。残された若者たちは生き残った。
彼らは支えるものをほとんどすべて失った。指導者であるサマリンさえも。
ゼロスタートである。すべてを失った彼らであるが、それが彼らの新たな物語の
はじまりなのだ。

しかし、彼らが、太陽の牙の若者たちがどのような新たな物語を、人生を歩むかは
好きに想像できるが、誰も分からない。



ただ、これだけは言える。
「太陽の牙ダグラム」はロボットアニメでありながら、政治劇に重きが置かれていた。
当時放送されていた「ザブングル」などと比べても、その作風はアニメとしても特異である。
ゆえに難解である。気楽に見られるアニメーションとは言えない。あるアニメ雑誌で酷評を
されていたのも、他のアニメとの特異性を見られてのことだと思う。だが、その特異性こそ
ダグラムの魅力である。また、政治劇に終始していない。その根幹にはそれぞれの登場人物の
ドラマがある。青春・群像劇という言葉で言い尽くせないほどの重厚なドラマが。
本作はオリジナルストーリーであり、75話も続いた大河ドラマである。今のアニメで、
原作なしで長くつづく作品はいったいどれだけあるだろうか。そういう点から考えてみると、
ダグラムのすごさがわかるはずだ。


作画の粗さや物語の長さ、そして、複雑さ……。
今の時代に受け入れられるかどうかはわからないが、若い世代の人にも見る機会があれば
どういう反応をするか、楽しみである。






ということを言っている人間がまだ20代に入ったばかりの若造であるのだが(苦笑)








(以上)
























こじつけの要素がかなりあるが、これが私のダグラムに関する総括とも言える
感想である。


あと、感想と言うか、これは販売サイドへの要望だが、
サントラ盤は発売しないのかな???

つか、ウルトラセブンのオケみたいに、ダグラムのコンサートとかやらないのかな???



そうおもう、黒紅茶であった。






次回から、「無敵超人ザンボット3」の感想をやっていこうと思う。こんどこそ、ね。

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飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
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