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「無敵超人ザンボット3」についての考察

全23話の視聴が終わったので、総まとめに入りたいと思う。






「無敵超人ザンボット3」についての考察

1、ザンボット3のリアルティ

2、二枚舌のエンディング

3、ザンボット3が見せたアニメーションの可能性








1、ザンボット3のリアリティ

とうぜんのことながら、アニメーションは虚構の世界である。
視聴者――すなわち私たちが虚構の世界に求めるものは何か。
それは現実の世界では味わう事の出来ないものを媒体を通じて体験することである。
極端な例えだが、男性がAVやエロ本を見ながら自慰行為に浸ることを連想して
くれたらいい。彼らは何らかの理由で生身の女性と性交渉ができない。だから、
AVやエロ本を通じて疑似体験を行っているのだ。私たちが映画やドラマを見るのも、
それとほとんど変わらない。そこから導き出せるものは、映画やドラマなどのコンテンツは
人々に夢を与えるためのものであるという考えだ。子供たちはディズニーアニメに夢想し、
女たちはドラマのイケメン俳優に恋し、男たちは美人女優に欲情する……。

では、ここで取り上げる無敵超人ザンボット3は、そういう、夢を与える作品であろうか。
レビューを読んできてくれた方々、あるいは本編を視聴された方が首を縦に振ることはないと
自負する。

ザンボット3は、ある家族が先祖の遺したロボットや宇宙船を使い、宇宙からの侵略者と
戦う、SFものの典型である。しかし、そこに描かれている情景は、SF的なキャラクターを
除けば当時の日本である。そこに――あえていうなら――第一のリアル(=現実)がある。

SFには未来的なイメージが付き纏うものだ。メトロポリスやタイムマシン、アイ・ロボットや
電気羊はアンドロイドの夢をみるか? など……。近いようで遠い、現実と離れた世界観が
展開されるものだ。だが、ザンボット3の場合は違う。ザンボットが戦う風景には日本家屋や
お城など、いまの日本でも見られる情景――つまり現実の情景が映し出されている。また、
敵であるキラー・ザ・ブッチャーの娯楽も、パチンコやビリヤード、トルコ風呂など、その
時代の――今もかもしれないが――現代人の娯楽である。宇宙からの侵略者だというのに。

夢の世界は、すなわち“非日常”の世界である。少なくとも現実ではない。
ザンボット3は現実ならざるもの(=媒体)である。そのなかに現実が描かれているのだ。

非日常の中の日常

そういう言葉でいいあらわしてもいいかもしれない。
だが、これはザンボット3の物語の特異性をあらわすものではない。
なぜなら、マジンガーZやゲッターロボ、コンバトラーVなども同様の世界観なのだ。
ただ、それらの作品とザンボットが大きく異なるのは、人間の死の描き方である。

ザンボットでは、主要人物以外にも、数多くの人間が死ぬ。
敵であるメカ・ブーストによる被害は、誤解を恐れずいうと当たり前の描写であるが、
主人公たる勝平のミスで人々が死ぬ描写も存在する。これはマジンガーZなどの作品には
なかなか見られない。さきにあげた作品でも人間が死ぬ描写はたしかに存在する。だが、
ザンボットのようにいちいち描写はしない。自明のものとして流しているのである。
あるいは「記号」というべきだろうか。視聴者は、人々がアリのように踏みつぶされても、
そこに残虐性を感じることはない。視聴者によって大事なのはヒーローと敵との戦いの
場面だからだ。ヒーローが家を間違って壊しても、逃げ惑う人々を殺してしまっても、
視聴者はおかまいなし。

だが、人間の死ははたして“自明のもの”なのだろうか。

そうは認めないのが現実に生きる私たちであろうと思う。
ザンボットは、通常のアニメ――のみならず特撮など含めて――における“自明なもの”に
アンチテーゼを唱えているのである。だから、ほんらいヒーローである勝平やザンボットが
活躍するシーンよりも、戦いによる犠牲の方が強調され、印象に残ってしまうのである。
だが、それがリアルなのである。戦争では戦闘員以上に非戦闘員が死亡するものだ。
非戦闘員とは逃げ惑う人々、女子供などのことである。戦争に直接かかわっていない人々が
犠牲となるのが戦争の残酷さである。ザンボットの物語もそれと同様の色を出しているのである。

これは何かの雑誌のインタビューで監督である富野さんが答えたことだが、
ザンボットにおける描写は彼に言わせると、(現実においては)「当たり前」なのである。
それまでのアニメでその当たり前が描かれなかっただけなのだ。というより、アニメに関わらず
映画やドラマは虚構の世界を描くものであり、人々に現実では味わえない夢を与えるものなのだ。
ザンボットではその前提が覆されたのである。そこに特異性があるのだ。

戦いに巻き込まれ、家族と生き別れになる場面。
いつ作動するかもわからない爆弾を背中に埋め込まれた無数の市民。
爆弾を埋め込まれた友人を救う事の出来ない主人公・勝平。
誰に頼まれたわけでもないのに、地球のために戦い、そして次々と死んでいく神ファミリー。

そこには夢のカケラなどない。あるのは残酷さ、現実でも起こりうるのではないか、と
思わせるほどの生々しさ。

しかし、非日常の世界に日常を描くことじたいはそれほど珍しいことでもない。
芸術分野における写実主義、日本文学でいう自然主義は、ザンボットでやったことをすでに
実践している。それでもザンボットが特異なのは、やはりアニメという媒体でそれに挑戦した
ことだろうと考える。

では、非現実のアニメに現実を取り入れることにどのような意味があったのだろうか。
そのことについてはおいおい触れていく。次の項では最終回の意味性について考えていきたい。


2、二枚舌のエンディング

兵左衛門、梅江、源五郎、そして宇宙太、恵子と…家族を次々に失う勝平は、
ガイゾックの黒幕であるガイゾックの神、コンピューター・ドール8号と対峙し、そこで
思いがけない言葉を耳にする。それは勝平のみならず、視聴者にとっても唖然とする
言葉であったことは前回のレビューでも述べた。

神ファミリーにとって、人類にとって、そして視聴者にとって、ガイゾックは
憎むべきであり、破壊と混乱の源であった。しかし、そのガイゾックにとって、人類こそが
宇宙の破壊と混乱をもたらす源であったのだ。

善悪の相対化。

これはなにもザンボットにはじまったことではない。富野さんはこれより前に監督した
「海のトリトン」で実践している。トリトンは、トリトン族と呼ばれている種族の生き残りの
少年トリトンが、一族を滅ぼし、海の平和を乱そうとするポセイドン族に戦いを挑む物語。
その結末で判明することは、もともとポセイドン族はトリトン族に抑圧されていた被害者で
あったこと、そしてトリトンの戦いがポセイドン族の人間を皆殺しにしてしまたことだ。
それまでトリトンは物語において被害者であり復讐者であった。それが最終話で逆転したのだ。
ただ、ザンボットとの違いは、その事実を前にしてもトリトンはひるまず、最後の敵を倒した
ことだろう。彼は目的を完遂したのだ。

しかし、ザンボットの場合は違う。最後の最後で、勝平は戦う意義を失ってしまったのだ。
それは戦いに勝利したからではない。たしかに、神ファミリーはガイゾックに致命的なダメージを
与えることに成功したが、勝利の後味はそこにはなかった。ただ空しさが広がっただけである。
それが地球に墜落するザンボ・エースのなかにいる勝平の独白として語られる。
勝平は睡眠学習によって戦いの恐怖を取り除かれていた。その取り除かれていた恐怖は
ガイゾックの死によって舞い戻った。勝平は戦いでほとんどすべてを失った。そのことで彼は
ふつうの人間にもどった。エンディングテーマをバックに展開される最後の映像は、勝平の変化を
あらわしているのである。

この、ラストシーン。表面的には、戦いを終え疲弊した勝平を人々が暖かい心をもって
迎えているように思える。エンディングテーマの歌詞が2番であるのも、重要だ。
勝平は家族のほとんどを亡くしてしまった。愛機であるザンボ・エースも見るも無残な姿と
なった。そんな彼には友人が、彼を好いてくれる人間がいる……だから勝平の未来は
暗くはない、むしろ明るいのではないか。明るい未来が戦いの終わった先に待っているんだ……。
そう思う事が出来るラストだ。まさに“感動のラスト”といえよう。

だが、勝平の立場…神ファミリーの立場からこの一連のシーンを深く見つめると、この場面に
隠された製作者のダークな意図を感じることとなる。

そのキーとなるのが警察署長であり、宇宙太の母親である。
このふたりが物語でどのような作用をもたらしたか、あえて言うまでもないだろう。
ガイゾックの襲来という非日常的な展開がもたらされたにもかかわらず、それに対応できず、
自分勝手な行為に走る俗物である。そういう俗物が、群衆のなかに紛れているのである。

ここから浮かび上がることは、その群衆の愚かさであり、怖さだ。
1話から15話までのあいだの、一般市民たちが神ファミリーにみせた反応を思い出してほしい。
彼らは必死でガイゾックと戦う神ファミリーに何をしたのかを。そういう人間たちが群衆として
勝平を迎えているのである。彼らは急に手のひらを返したのである。

いまの時代で例えをあげると、民主党に対する反応と原発への反応である。
(私は決して民主党支持者ではないことを釘打っておく)はじめのころは必死に自民党叩きを
していたマスコミ。彼らは民主党を熱烈に支持し、人々はそれに釣られる形で民主党に票を
投じた。彼らなら日本をなんとかしてくれると……。それがいまではどうか!
マスコミは自分たちが民主党を支持していた事実を忘れ、政治やその他の問題における責任を
すべて民主党に押しつけている。よく、総理の任命責任という言葉を耳にする。もし総理に
閣僚の任命責任があるのならば、政治家に票を投じた民衆、それをアジテートしたマスコミにも
同様の責任があるはずだ。にもかかわらず、自分たちの責任には言及していない。それは原発の
問題も同じである。福島原発のことで急に“反原発”というムードが世間に広まった。
「原発は危険!」とし、原発稼働に賛成する人に激しい攻撃をするようになった。だが、だ。
原発が危険であることは数十年前から分かっていたことである。国民がその気になれば、
すでに原発なんて使われなくなっていただろう。にもかかわらず、今日まで原発が残っているのは
なぜか? それは国民がそこまで本気ではなかったからである。今更になって「反原発!」というのは
都合がよすぎるのではないか。 政府が公表している家庭の電気使用量を見てほしい。私たちは
知らないうちにも原発によるエネルギーの恩恵を得ていたのである。その点を考えたうえで、
「反原発!」と訴えているのであろうか。また、これは感情論では忌避される言葉だが、被害者と
されている福島の人々――とくに原発関連の――はどこまでが被害者なのだろうか?

話が大幅にそれたきらいがあるが、本筋は変わっていない。つまり、私たちは自分たちの
都合で立場を勝手に変えているのである。そして、そのことによってもたらされる様々な
問題を考えていない。つまりは自己に対する責任が欠如しているのである。

自分たちの都合のいいように動く大衆。
そんな人間のために神ファミリーは戦い、死んできた。それは崇高な死とは程遠いものである。
(もっとも、人間の生き死に高尚や低俗といった概念を用いるのは気が引けるが)

群衆は勝平を迎え入れた。だが、彼らがいつ手のひらを返すか分からない。もしかしたら、
いつか彼らは勝平を追放するかもしれない。そう考えると、このラストシーンは感動ものとは
いえない。むしろ怖さが、人間がもつ恐ろしさが感じられる。そして、それはそのまま
現実に生きる私たちの鏡となるのだ。


3、ザンボット3が見せたアニメーションの可能性

ザンボットには“夢”がない。
あるのは、現実社会以上に過酷な世界。
文学研究的な用語でいいあらわすならば、

写実主義的なアニメーション

そう定義するべきだろうか。
本作は決して明るいアニメではない。むしろ暗い。
ロボットアニメは“おもちゃ会社のCM”みたいな文言を何かの本で読んだことがあるが、
ザンボットは宣伝道具のなかに、小説のようなドラマツルギーを見事に挿入した作品といえる。

「子供番組だってここまでやれるんだ!」
「ただのロボットアニメ(=玩具の宣伝)と思うなよ!」

そういうイメージも感じられる。

総監督である富野さん。彼はもともと実写映画を志していた人間であった。それが諸般の事情で
アニメーションの仕事をすることになったのだ。手塚治虫が率いたあの『虫プロ』である。
彼は仕事とはいえ、実写映画をつくれないことに葛藤を抱いていたことだろう。その思いが
アニメのコンテに映画的な要素を入れることになったのだ。トリトンやザンボットにおける描写は
アニメーションへの抵抗ともとれる。
(※アニメは“電気紙芝居”とか言われるほど、低俗なものと見なされていたらしい)

長浜監督がザンボットをやっていれば、きっとハッピーエンドで幕を閉じたことだろう。
あのエンディングは、富野さんだからこそやれたものだと思う。彼がもつ、映画へのあこがれ、
仕事として行っているアニメーション制作への複雑な思いが、ザンボットのドラマとなったのだ。

ザンボットは決してメジャーの作品ではない。だが、のちのガンダム等の、いわゆる
リアルロボットアニメの源泉は本作にあるのだ。人間爆弾や家族の戦死、善悪の逆転など、
それらはやりすぎともいえる。だが、やりすぎによって創作の可能性が大きく広がったのだ。
ミッキーマウスやトムとジェリーがアニメのすべてではない。

映画のように、様々な間口があっていいのだ。
ザンボット3はロボットアニメにおけるヌーヴェル・バーグ(=新しい波)だったのではないかと
思う次第である。
















……と、いつもながらまとまりに欠けてるけど、これで終わりにする。
次回からは、長浜ロマンロボ三部作のうちの二部作目、

『超電磁マシーン ボルテスV』について紹介しようと思うので、よければ閲覧を♪


それでは再見!


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飾りです。偉い人にはそれが
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詳しくは「はじめに」を
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