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無責任社会あるいは国家としての日本

色んな本を読んで、考えて……。なんとか記事というか、論文ができました!!!


ワードで書いていたものをそのままコピペしてるんで、読みにくいし、長文です。
ほんとはPDFファイルに変換しようと思ってたんですが、参考動画も
載せたかったので普段通りにしました。

覚悟がある方(笑)は『続きを読む』をクリックしてください。
コメントもお待ちしております。

それと、最後の方に参考文献の紹介を行っておりますが、一部の本はブログで
紹介したいと思いますのでお楽しみに!


あと、よくいらっしゃる方々へ、更新が遅くなって申し訳ありませんでした。
これからも本ブログをよろしくお願いします。

m(_ _)m
無 責 任 社 会 あるいは国 家 と し て の 日 本



     1

「無縁社会」「孤立化」「時代の閉塞感」といった言葉が象徴するように、現代の日本はどうやら生きにくい世の中となっているようだ。2011年3月11日の東日本大震災以来、「がんばろう日本」「絆」といったスローガンが氾濫している。結束して混迷を乗り越えようという思いであらわれたものだろうと思うが、このスローガンはどれだけの効力を持っているというのだろうか。たしかに、震災直後は各地域で義捐金を募る運動が行われた。反原発運動とやらも各地で行われている。有名人たちがこぞって被災地にボランティアを行ったりもした。だが、現在はどうか。今も支援を継続している人たちは存在しているが、あのころに比べると少ないのではないだろうか。週刊ポスト3月9日号でのあるコラムを読んだが、それは今の日本にとっての痛烈な皮肉と受け止めざるをえなかった。

<自戒をこめていうんだけど、ニッポン人には「感動ごっこでお茶を濁す」っていう悪い癖がある。
 寄附をして、被災地に行って歌や踊りをしてみせて、最後はみんなで手を取り合って「感動をありがとう!」って涙のフィナーレ。被災者は喜んでくれるし、イベントをやるほうにも達成感がある。それはそれでいいけど、本来もっと優先されなきゃいけない根本的な問題の解決にはなっちゃいない。
 被災した方々の中には、仕事をなくしたり、棲む家をなくしたりして途方に暮れている人たちがたくさんいる。それをどうにかするのは政治の役割なんだけど、じゃあ政治のデタラメに本気で抗議したり、自ら動いて被災者の仕事や家をどうにかしようとしたヤツらがいたかどうか。オイラを含め、そこまでやった人間は誰もいないわけだよ。
 寄附だって、本当に被災者のほうを向いてしたことだったか。社会全体の雰囲気を見て、「オレもこのぐらい出しといたほうがいいか」って、自分の立ち位置を意識してやったことじゃなかったか。>
<被災地からの品物を受け入れるのを拒否したり、原発が怖くて遠くへ逃げたり……。気持ちはわかるけど、女子供はともかく、大の大人がやっちゃみっともねェだろ。>
(ビートたけしの21世紀毒談「震災1周年」特別編より引用)

  少し長い引用となってしまった。お笑いタレントとして知られるビートたけしのコラムの引用だが、彼が言ったことはほぼその通りであると思う。私の師は、震災直後の義捐金活動を『義捐金列島』といった。募金箱を持つ者は町を歩く人にお金を入れるように呼びかけた。そして、彼らが持つ箱にわずかなお金を投じた。私もそのひとりだ。だが、これは私個人の話であるが――私は流れに身を任せるかのようにお金を箱に入れてしまった。彼らの存在に圧力を感じたのだ。お金を入れなければならないという。それはいわゆる同調圧力だ。これは昨今の原発を巡る議論でもその効力を見せている。どのメディアもこぞって反原発を訴えており、原発再稼働を唱える人間を執拗に攻撃している。たしかに、福島の一件があって原発は危険だと認知するのは仕方のない話である。しかし、日本全体のエネルギー問題として原発のことを改めて考えたとき、ほんとうに反原発を唱える人が言うように、原発なしで日本はエネルギー問題を乗り越えられるのだろうか。また、フランス革命時の貴族批判のように東京電力をはじめとする電力会社が日々、槍玉にあげられているが、いったい彼らにはどこまで責任があるというのだろうか。また、電力会社が倒産したとき、そこで働いていた人々はどうなるのだろうか。そういうことを考えた上で、人々は批判を行っているのであろうか。
 
 いま挙げた例から明らかとなる病理――それは、社会が、そのなかで生きる私たちが、ありとあらゆることに対して無責任であるということだ。



 まずは原発の話から入りたい。被災者の方々の感情を苛立たせる言葉になるかもしれないことをまず触れなければならない。どういうことかというと、各地で反原発運動が行われている。この運動自体を害悪というつもりはさらさらないが、問題は原発が作られたとき、いったいどれだけの人間が今日のような反対運動を行ってきたか、ということだ。さきに言いたいことをいうと、遅すぎるのである。原子力が危険であることは60年以上前に原子爆弾投下という事例で証明されていた。また、第五福竜丸やスリーマイル、チェルノブイリの事故なども起きていた。にもかかわらず、今日まで原発が稼働していたのは何故か。いま、反原発運動はそれが当たり前のことであるかのように行われているが、この運動に関わっている人たちは今日に至るまでの流れをどこまで考えたうえで活動しているのだろうか。これに対して、「政府が悪い」「東電が全部悪かった」と反論する者も出てくるかもしれない。それを封じるためにも述べておくが、私たち自身は政府ないし東電の横暴に対し、どれだけ抵抗を試みたのだろうか。今日まで原発が稼働していたのは――そして、福島の事故に至ってようやく社会的に脱原発という流れができ、政府も脱原発を試みると宣言したのは、これまで誰も本気で原発を止めようと思わなかったからではないか。私たちには幾度も原発を停止させるチャンスがあった。だが、そのチャンスを逃した。今日の原発問題は私たちにもその責任が少なからずあるのだ。私たちはそれを政府や東電といった、いわゆる権力に丸投げしているに過ぎないのだ。ビートたけしがコラムで書いたように、社会全体の雰囲気に流されているに過ぎないとも。

 現在の民主党政権に対しても同様のことがいえる。普天間基地問題や尖閣諸島をめぐる問題、そしてTPP問題や東日本大震災の際の対応において、民主党政権は世論から多くの非難を受けている。その非難自体を批判するつもりはない。彼ら民主党は批判されてしかるべきものと考えているからだ。だが、いったい私たちの何割が彼らに対して批判する権利を所有しているのであろうか。彼らは国民の過半数の支持を得て、野党から与党の座に着いた。国民は彼らに政治をまかせたのだ。まかせた国民には彼らに政治をまかせたという責任はないのだろうか。政治の世界ではよく任命責任というものが問われる。閣僚の失言やミスに対し、その上司たる代表者が責任をとれという考え方だ。私たちは直接的には政治にかかわっていない。だが、間接的には政治にかかわっているのだ。投票や政治家への陳情などの行為によって。その私たちにも、現在の民主党の体たらくには少なからず責任があるものと私は考える。先ほど述べたように、反原発運動などの活動が行われるようになったが、かつての安保闘争のような大きな反政府運動のような活動は行われていない。権力の監視が厳しくなったという見方もできるが、それは言い訳に過ぎないだろう。私たちは政府に対して何らかの不満を持ちながらも、ほとんど何もしてはいないのだ。また、政府の愚行の一方的な被害者とまでも考えている。かつての太平洋戦争について触れる際、よく「軍部が悪かった」「天皇が悪かった」というような主張がメディアや学校教育の場で飛び出す。そしてこの主張の中では、(当時の)人々は悲惨な戦争の犠牲者である。だが歴史を紐解けばわかるが、彼ら戦争の犠牲者はその一方で戦争協力者としての側面も持っていた。政府によるアジテーションもあったとはいえ、人々は日の丸を振って万歳三唱を行っていた。そして、ろくな反戦活動は日本国内で行われなかったのだ。あの日本共産党ですら、だ(このことについては立花隆の『日本共産党の歴史』を参考にされたし)。あとになって、「○○が悪かった」という言い草だ。そこには他者の存在はあれど、自分についてはまったく触れられていないのはいうまでもない。現在の状況とこの構図は同じだ。2009年当時のマスメディアの熱狂ぶりを思い出してほしい。連日にわたる自民党バッシング、政権交代のムーブメントの生成、民主党を持ち上げたワイドショーの数々……。その後、マスメディアは手のひらを返したかのごとく平然と民主党批判を行っている。自分たちが民主党寄りの報道を行い、アジテーションを行ったにもかかわらず、そのことについては触れないままに。



 そして現代の日本社会。NHKドラマの劇場版『ハゲタカ』の特報で「こんな日本に誰がした!?」というような文言が出てきたように、今の日本は閉塞感に包まれた状態にある。今の日本の社会を覆う閉塞感――いうなれば生きにくさは、(一般的に)政治の問題や社会構造の問題として認識されている。この生きにくい日本の社会に対しても、人々は「○○が悪い」という言葉を使いたがる。この問題も先の二つの例と同じく、当事者たる私たち(人々とも解していい)の責任はオミットされている。私たちは単なる被害者という位置づけなのだ。この認識を間違っているとはいわない。だが、正しいものということもできない。ただ、問うだけである。現在の行きにくい世の中は私たちが招いたものなのではないか、と。

     2

 私が謎に思うのは、なぜ私たち――誤解を招かぬためにも“私たちの多く――それも私個人が思い考えている人々”がというべきかもしれない――はあらゆる問題について、他者にその責任を問い非難の声を投げかけながらも、自己の責任の所在についてはまったく考えようとしないのだろうか。原発問題も、政治問題も、閉塞感を抱える社会の現状についても、私たちは自己の責任の所在を検討しない。それは、現状に満足していると解するべきなのか。それとも、何をしても意味がないという絶望にうちひしがれているのか。あるいは、たんに人々の動きが見えないだけなのだろうか。
 最初の項において、私が考えたこと――それは、現代に生きる私たち日本人の多くは他力本願で且つ無責任主義的な傾向を内に抱えているのではないか、ということだ。
「不満はあるが、自分には現状を変える力がない」
「いいや、いまの状況は別にそれほど悪くはないかもしれない」
「きっと誰かがこの嫌な状況を改善してくれるだろう、だから何もしなくていい」
 このような感情に私たちは支配されているのかもしれない――政治的無関心というものである。

 投票率の高低で政治への関心度について推し量ることは難しい。なぜなら、“『政治的無関心』という名の『政治的関心』”というロジック――も成り立つからである。
 政権交代の機会となった2009年の衆議院総選挙での投票率は69,3%。その前の2005年の総選挙は67,5%だった。数字だけを見れば、前回の選挙に比べ投票率が上がったのだから、投票率が政治への関心度をあらわすものと仮定するならば、投票率の上昇イコール政治的関心度の上昇と見なすことも可能だろう。しかし、メディアなどでは若者の政治離れとやらが問題視されている。若年層の低投票率を見たうえでの問題視ということだろう。
 若年層の低投票率が問題視されるのは、彼らが未来の日本を担うべき存在だからという認識によるものだろうと推察する。フィクションの世界でも、多くの作品において若者は未来をつくる人間として描かれている。その、“未来をつくる人間”たる若者が、日本の未来を担う政治の問題に無関心だから、それを憂えているわけだ。
 だが、投票率によって人々の政治への関心度を計ることができるとは思えない。政治への関心ではなく、立候補者へのミーハー的関心によって票が投じられる可能性が十分にあるのだ。それが昨今のタレント議員(あるいは立候補者)である。彼らは主にエンターテイメントの世界で活躍する人間である。政治家になる以前から、選挙の立候補者となる以前からの知名度というものが存在する。その知名度は、他の議員及び候補者が掲げるマニフェスト以上に強力なものである。有権者たる人々は、タレント議員のマニフェストに共感して票を投じるのではなく、票を投じる相手――立候補者がタレントであるから票を投じるのだ。タレント議員に票を投じるのは人々が持つミーハー的関心によるもの、という見方は性急かもしれない。だが、タレント議員は無名の立候補者に比べると人々に顔と名前が知れられているぶん、知名度の面では有利――政治に興味がなく、ただ義務として投票を行う人間は各立候補者の掲げるマニフェストを読むことを煩わしく思い、「知っている人だから……」というだけで投票を行うケースは確実にありうる――であることに変わりない(もちろん、ここには立候補者の“ヒトトナリ”などは加味されていないから、すべて当てはめるのは無理があるだろう)。ミーハー的関心というよりも、タレントという一種の権威に対して人々は無力なのかもしれない。
 社会学者である古市憲寿氏は、著書などを通じて、若者は決して政治に無関心であるわけではないことを指摘している。だが、政治的無関心であることに変わりはないようだ。
 政治的無関心は、文字通り受け取ると、『政治への関心がないこと』と定義することができる。この言葉の定義については学者等でも意見が分かれるところであるようだ。では、なぜ政治に関心がないのか。それは先に挙げた「不満はあるが、自分には現状を変える力がない」という思いからではなく、恐らく「たんに政治に興味がない」からなのかもしれない。つまりは、政治を他人事と解しているのだ。自分たちの暮らしには関係のないものと捉えているから政治に関心を持つ必要性もないわけである。
 そう、政治は“自分たちの暮らしには関係のないもの”と認知されてしまうのだ。私たちは、政治というものを「国家や社会を動かすもの」「政治家という人間たちが議会で何かをやること」というようなレベルでしか理解していない。枠にはまったものとしか見ることができないのだ。だが、政治はそのような枠組みのものではない。ハンナ・アーレントにいわせれば、政治とは自由なのだ。国会や議会で行われている政治家とかいう輩の泥仕合だけを政治と呼ぶのではない。ありとあらゆる場所で人々が行う対話をそう呼ぶのである。これはアーレントがはじめてではない。古来より政治はそういう概念として語られていた――その通りのものとして受け入られていたかは別として。一部の権力者のものではないのだ。つまりは、政治の問題とは私たちの生の問題であるということなのだ。そして、政治的無関心とは――表面的な言葉としての“政治”への“無関心”ではなく――日々の営み、それも人と人との繋がりへの無関心を意味するのである。
 このことは最初の項であげた問題とも繋がる。だが――残酷な言葉で言い表すならば――私たち日本人は無責任である以前に、無気力なのかもしれない。
 では、無気力状態を招いた原因は何か。日本において、外的要因としては官僚制がその原因と考えられる。それは、官僚が政治を好き勝手にしてきたことを非難するわけではない。つまりは、私たち並びに政治家たちは、政治のプロフェッショナルたる官僚の能力に依存してきたということなのだ。現代日本ではまるで「悪の枢軸」のような扱いを受ける官僚性であるが、マックス・ヴェーバーの頃は最も妥当な政治支配の制度と考えられていたのだ。ヴェーバーの指摘について触れると長くなってしまうが、簡単に言うと、官僚制は政治家のような個人存在とは違い、組織であるためにムラがなく、能率的(機械的と言い換えても良いかもしれない)に政治をこなすことができるということだ。カリスマ的支配者・独裁者――たとえば北朝鮮の金王朝など――のように気まぐれで政治を行うことはなく、きちんとした計画立案の元に政治を行う、それも専門の知識を駆使したうえで。その点で安心できるシステムなのである。「脱官僚」を掲げながら、そのスローガンを現政権与党たる民主党が達成できないのは、官僚の組織力うんぬんの問題以前に、知識の差である。今の日本の政治は、官僚なしには何もできないと言えるほど、官僚に依存し切っているのだ。だが、依存し切っていた側にも責任がある。それが、内的要因として考える要素――社会である。

     2の“補項”として……

 何度もしつこく社会という言葉を用いてきたが、この言葉はそもそもどういう意味なのだろうか。よく「社会常識が……」とか「社会の○○」といった言葉を聞くが、その実態はあいまいである。よく分からないままに、私たちはそれを当たり前のごとく用いてきた。私は、この社会という言葉は“私たち”という言葉とそれほど意味はかわらないのではないか、と思っている。私たちとは、私(わたし)という存在とその周辺者をさし、社会とはそれを枠組みとして再認識したものなのだ――ただ、そこには、その言葉を用いる人間の主観性が多分に入り込んでいる。普遍性がないと言ってしまおう。例えば、
「社会常識がなっていない!」
「社会はそれほど甘くない!」
「お前は社会人失格だ!」
というような言葉がある。よく聞くフレーズではないか、と思う。この言葉は発話者と被発話者との立場を差別するものである。発話者は、自らを社会の一員と仮定した上で、相手をそうではない人間と見なしている。仮定というと理屈じみた言い方だが、ようは“勝手にそう思っているに過ぎない”のだ。「自分は社会の一員だろう」という漠然とした自覚に成り立っているわけであり、この仮定が、他者の仮定・価値観と一致するかは分からない。発話者が思う社会常識が被発話者の社会常識と認識する必要性があるとはいえないだろう。被発話者にとって、「社会常識がなってない!」といった発話者こそが社会常識のない人間なのかもしれないのだから。
 私たちはよく「社会常識」という言葉を日常で使うことがあるが、この言葉が適用する範囲が具体的にどこからどこまでかは分からない。自分たちの目分量によって曖昧に定義されているだけに過ぎないのだ。
「社会常識がなっていない!」という言葉を分析してみよう。ここでの社会は、私が先ほど述べたような定義である。だが、発話者は、その言葉――つまり“社会”や“私たち”という言葉を平然と使えるほどに、周りの人間のモラルを熟知しているのであろうか。そもそも、「他人が○○」だから「自分も○○」と、他人に波長を合わせる必要もあるのだろうか。
 発話者は無意識的にせよ、その言葉を通じて自らを正当化したいだけなのだ。“社会”や“常識”という言葉には権威性がある。他者を無意識的に圧迫する力だ。明確な意味が決まっていないために、時々の自分の都合に合わせ、解釈ができる武器なのである。私たちはこの権威主義の武器に太刀打ちできるだけの個性を持っていない。さきほどの“私たち”という言葉もそうだ。この言葉は社会と同様に具体的に定義していくことが難しい。具体的にできるほど人は人を知らない。知っていても、自分が知る範囲での定義でしかないのだ。だが、このふたつの言葉には恐ろしい効用がある。それは、そのようなことを疑わせずに、私(わたし)を捕らえてしまうことだ。“社会”や“私たち”という言葉は、いうなれば『水戸黄門』における印籠の役割を持つのである。印籠の前では、悪逆非道の代官ですら行動不能に陥り、ひれ伏してしまう。反逆した者は、のちに黄門の部下に切り殺されてしまう。社会に反する人間を排除することと、その構図は似ている。
 私たちは反社会的なものを容赦なく敵視し、排除する傾向にある。ヤクザに対する扱いはその典型であろう。ここには、ヤクザの社会を許容する思考はない。ただ、ひたすらヤクザを排除しようという思いがあるだけだ。そして、ヤクザ排除が絶対善という認識も蔓延している。日本の社会がヤクザなどのいわゆる裏社会の人間によって支えられてきたということを考える人間はいない。
「今の若者はダメだ。昔はよかった……」というようなことを言う人間がよくいる。だが、これは社会学者の古市憲寿に言わせると、ノスタルジーの生み出す幻想なのだ。つまり、自分――が過ごしたある特定の時代――を正当化したいがために、違う世代の人間を非難するのである。「社会が○○」も結局はそれと同じなのである。そこにおいて、発話者はつねに正当な存在としてあり続けるのだ。

 わざわざ“補項”としてこのような分かりにくいことを記したのは、私自身、そして私たちが言葉を、自己を正当化するために用いていることを再認識するためにほかならない。
(もちろん、これまでの考え方も結局は論者である私の考えを自らの都合のいいように“でっち上げ”ているのだと解することはできるし、そう言われてもいた仕方ないとも思っている)

     3

 社会という定義はあいまいである。私はこれを――補項を加味すると改めてになるだろう――次のように定義したい。
 社会とはすなわち、“私たち”という存在の集合体である。“私たち”とは、発話者たる私(わたし)が認識する人間たちの総称のことである。社会も私たちも、発話者の主観に基づいた認識であり、他者が主張する社会ないし私という認識とはどこかに必ず差異が発生するものである。私はこれから日本の社会について考えていくが、私は日本社会の構成員たる人間(日本人、在日外国人含めて)をすべて知っているわけではない。書物やデータによって得た社会についての認識(=主観)に基づいた考察に過ぎないことをここで述べておかねばならない。

 さて、1・2項において私は日本人とその社会が無責任社会であるのではないか、と考察した。この根拠の根底にあるのは、現在の日本は昔に比べてデモや運動が少ないのではないか、という考えだ。高校の教科書の歴史年表などを見ても、やはり現在は昔に比べてそのような運動がないように思えてならない。
 では、なぜ運動が減ったのか。漠然とした考えだが、おそらく「何をしても変わらないから、何もしないでもいいだろう」という絶望感ともいえる思いが広がったからだろう。
 こういうと、昔は理想に燃える人間が多く、現在はそうではないという風に解釈されるが、昔も今の日本もそれほど変化していないというのが社会学などにおける結論である。
たとえば、パオロ・マッツァリーノは『反社会学講座』において、昔の日本人(よく理想像で語られることの多い明治時代・昭和初期の日本人)はそれほど勤勉ではなかった、またフリーターやニートなど、現代の日本で問題視される存在も、その当時から――呼称は存在しなかったけれども――見受けられたことを述べている。古市憲寿も、『絶望の国の幸福な若者たち』において昔を美化し現在を卑下する考えを幻想と一蹴している。
 私が興味深いと思ったのは、ルース・ベネディクトの『菊と刀』だ。ベネディクトはその本において、当時の日本人を分析している。そこで彼女は、日本人は権威主義者であり、無気力体質を持つことも記していた。
 権威主義と無気力体質。このキーワードは現在でも当てはまるものではないだろうか。



 “権威”という言葉は「肩書き」「階級」などの言葉で言い換えることも可能だ。日本は戦後、民主主義国家として復活(?)したが、階級による差別が依然として行われている。「学歴社会」がその最たる例だろう。
 ある作家先生が私に次のようなことを言った。
「どこの大学を出たかなんて問題ではない。ほんとうに大切なことは何を学んだか、だ」
 だが、社会で重宝されるのは学んだことではない。どこの大学を出たか、である。このことについては大学生の就職活動を論じた本に記されているためにこと細かく記そうとは思わない。就職活動において、よく企業は「どこの大学問わず」という文言をエントリーシートなどに記すことがあるが、その実大学によって枠が最初から設けられているのが現状だ。大手企業の人間の学歴の多くが国立大学なのは、その個人の資質云々の前に、その学歴が関係することが多いという――問題化した岩波書店の縁故採用の例はその典型的なものに挙げられるのではないか。
たとえば東京大学。この学歴――露骨に言ってしまうと肩書き――は、地方の○○大学というものよりも圧倒的に威圧感がある。それは、東京大学が難関校であり、そこに入学するために必死に勉強してきただろうという期待感があるのと、それと同時に、社会で成功している人間のなかに東京大学出身の人間が多く見られるからである。つまりは、すでにモデルケースが確立されているというわけなのだ。
 私たちは、このモデルケースに一種の権威性を感じ、畏怖するのだ。太平洋戦争中の多くの日本人が「天皇陛下、ばんざい!」などを叫んだように。もちろん、あの当時はそう叫ばなければ迫害され、逮捕され、殺されるという恐怖もあった。だが、それに抵抗した人間はいったいどれだけ存在したであろうか。このことについては、加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が明らかにしてくれるだろう。または、伊丹万作のエッセイ集を参考にして考えてほしい。

 無気力体質は、それに対して――のみならず、あらゆることについて何もしない――無抵抗であることをいう。この無気力体質は、「他力本願」や「無責任」と言い換えることもできる。自分ではなにもしようとはしないのだ。他人に物事をまかせてしまうのである。
 しかし、恐ろしき矛盾は、そのような体質にもかかわらず、人々は自らのエゴに基づいて不満をよくぶちまけることだ。その矛先は、ときに漠然とした概念の“社会”であり、ときに少数の気力ある“個々人”に向けられる。
 何もしないくせに文句をいう不平屋。このような人間が多いのが現実である。そして、そのような人間によって成り立っているのが社会であり、私たちなのである。
 現代の日本の社会問題であり、キーワードたる「無縁社会」「孤立化」「時代の閉塞感」は、知らず知らずのうちに私たちが引き起こした問題なのである――無論、それがほんとうに問題とされるのであれば、だが。
 私たちは社会について不満を述べることはあるが、そのときには自らが社会の構成員であることを忘れている。自分たちが日本を動かしているという実感を得ていないのだ。それは危険である。自己を認識できていないのだ。就職活動における自己分析のような病的な方法をとれとは言わないが、社会のなかにおける自分の位置というものを考えることは大切だ。そして、それを考えられていない現状を打開しなければ、ますます社会は、私たちは無責任な人間となっていく。その無責任人間の増加が、取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない。本エッセイはそのことについての警鐘めいたものであるから、当然、打開策を述べなくてはならない。と同時に、あらためて“現在”の無責任社会を生み出すメカニズムについても論考する必要があるだろう。

     4

 まず、無責任社会――他の語で言い換えるならば、他力本願社会・無気力社会ともいえるだろうが、ここでは無責任社会を貫いていきたい――について述べたい。無責任社会とは文字通り、無責任な社会である。社会については前項で定義したから何度も繰り返すつもりはない。では責任とは何か。
 ニュースなどを見ていると、ときおり「社会的責任」というものがある。昨今の出来事を振り返った上で例文をひとつ考えてみた。おおよそ次のような使い方だろう。
「東京電力は被災地域の人々に対して社会的責任を果たさなければならない」
 これは、震災によって派生した原発の放射能漏れ問題を背景とした語である。ウィキペディアで“社会的責任”と検索をかけてみると、<組織や個人の行動は、単にその単体の効用だけによって計れるものでも、限定されるものでもない。市民としての組織や個人の、社会的業績や法令順守の状態も、行動の結果として当然に現れる。組織や個人は自らのことだけに専念して、他の組織や個人または地域や社会を無視してはならない。組織や個人は、社会において望ましい組織や個人として行動すべきであるという考えが、社会的責任である。>と出てきた。福島原発は東京電力が所有する施設である。その施設が地震によって壊れ、そこから大量の放射能が発生。結果、周囲に住んでいた人々が放射能の被害を逃れるために土地を捨てざるを得なかったというのが福島原発の問題の単純整理である。東京電力という一企業が、地域の住む人々に対して迷惑をもたらしたと言ったほうが分かりやすいだろうか。彼らがとるべき責任とは何か。先の文言では明らかにされていない。また、ウィキペディアから引用した語でも、果たすべき責任がどのようなものか述べられていない。今度は、“責任”という単語だけで検索をかけてみた。それが次の引用文だ。
<責任(せきにん、英: responsibility)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。>
 ここでも、具体性は見られない。広辞苑でこの単語を調べてみると、こう記されていた。
<①[荘子(天道)]人が引き受けてなすべき任務。「―を全うする」「―を持つ」「―をとる」②政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う>
 調べていけば調べていくほど漠然とした思いにかられる。これは他の言葉でもそうだ。私たちは言葉について、明確な意味というものをほとんど知らない。漠然とした感覚しか持たないのだ。そして、それだけでも十分使える――使っているつもりでいるだけという認識はあまりに残酷だろう――のである。
 だが、これらの引用で明らかとなったことがある。それは、責任の具体的な問い方などは分からないが、責任と言葉には必ず対人関係性があるということだ。例文における東京電力と被災地域の人々というのが、その関係性をあらわすにふさわしい最たる例だ。
 私が例や語の引用をもちいて述べたいこと、それは責任という言葉は、人と人との関係性――いうなれば“繋がり”をあらわす言葉であるということだ。何か問題が起きた際、お互いがその問題について対処し合ったりすることをも意味する。出来ちゃった結婚における「責任をとる」というのは、妊娠させた相手が、妊娠した女性と結婚することをよく意味する。責任という言葉は、他者の存在があってこそ機能するものなのだ。
 無責任社会とは、簡単にいえば人と人との繋がりがなくなった社会、あるいは繋がりが希薄になった社会のことである。この説明に説得力を与えるために必要なキーワードはいちばん最初の項に登場している。「無縁社会」「孤立化」「時代の閉塞感」。ここに「人との繋がり」という単語を加えると、その相関図が見えるはずだ。
「孤立化」という言葉だとよくわからないと思う。“孤立死”という言葉で考えてもらいたい。これは、ある個人が誰にも見取られることなく独りで死ぬことをあらわすものだ。新聞・テレビで知った人もいるかもしれないが、この孤立死の事件は首都・東京(を含む大都市)で多発しているそうだ――事件として表に出るケースは氷山の一角として考えたほうがいいかもしれない。この孤立死という言葉は、「無縁社会」ともマッチする。無縁社会とは人と人との関係が希薄になった社会のことを言う。その社会で起きた事件がこの孤独死なのだ。同じマンションに住んでいながら、隣人が死んでいることに気付かない。児童虐待やネグレクト(育児放棄)がすぐ近くの家で起きているのに、何もしない・何もできない……。このような事件が各地で起きているのだ。
 この無縁社会という言葉と無責任社会という言葉はその意味においてほぼ同質のものである。細かな違いは、無責任社会は人と人との繋がりのみならず、そこから派生するさまざまな事象に対しても無責任であることを、無気力であること、さらにいうと無関心であることをいう。この社会に生きる人々――つまりは現在の日本人――は自己とその“限られた”周辺にしか興味・関心がないのだ。それらのこと以外はどうなっても知ったことではないというわけだ。無論、このロジックには『他者のなかで生きている自分』というような認識はオミットされている。何もかも「自分が!」「僕が!」「私が!」なのだ。
 私はエゴイズムを否定するつもりはない。ニーチェらに言わせると、もともと人間はエゴイズムの生物なのだ。自分本位で生きることは(ある意味で)正しいことかもしれない。だが、私たちにはエゴイズムを抑制する法や倫理道徳が存在する。これは他者との関係において、他人を慈しむといった思いなどを除けば、それは自己を守るためのいわば盾なのだ――他者のエゴイズムによって自己が被害を受けないための。自分(自己)を守るために自分(自己)を抑制(あるいは抑圧)するのである。人と人との繋がりは支配と抑制によって成り立ってきた。そのシステムが崩れてきた――システムを運用するべき人間が腐敗してきた――ことによってエゴイズムが表出したのだ。それが無責任社会のメカニズムの一面である。東日本大震災直後、東京都の石原慎太郎都知事が「天罰発言」で非難を受けたが、あの発言のなかで登場した「我欲」という単語はまさに表出し蔓延するエゴイズムのことなのである。私たちは自らの“道徳感情”に基づき、石原都知事を非難したが、感情論抜きに冷静に彼の発言を読み取ると、私たちが声を荒げて非難するほどのものではないことが分かる。むしろ、そのような言葉に敏感になり過ぎている自らの器の小ささに気付くだろう。感情はエゴイズムに直結するもので、エゴイズムは人間の本性である。だが、それをむき出しにしたままでいると、自己と他者の関係は成り立たない。磨耗し合い、やがては消え去るのみである。私は、私(わたし)という存在は他者が存在してこその、他者と共生してこその私(わたし)であると信じている。だから、他者の存在を試みず、エゴイスティック(自己中心的)に生き且つ他者の権利を脅かす人間――いや“輩”を許すつもりはない。そして、そのような輩は社会のために排除されるべきとも考えている。だが、それでは建設的ではないと思うから、このようなエッセイを書き連ねているのである。つまり、多くの人が分かり合えるための思索(エッセイ)である。





 エゴイズムを単純に“自分本位あるいは自分勝手な生き方”と解したうえで、このことを突き詰めていこうと思う。つまり、現代日本におけるエゴイズムの表出・蔓延の原因と、それがもたらした諸問題についてである。これについては論証が難しいものの、答えははっきりとしている――もちろん、無責任社会をもたらした原因のことを言うのである。
 社会が、私たちがいまの日本の諸問題の原因である、と私は回答したい。社会で起きる問題について考えをめぐらせると、特定の個人や社会(システム)について私たちはその責任を問いたくなるものだ。私は私自身が抱く社会という言葉の概念について何度も小難しく述べた。だが、恐らく多くの人は、社会というものを自分たちとは考えず、自分たちとは別個のものと考えていることだろうと思う。何か問題が起きるにつけて「社会が悪い!」と他人事のように言える人間が多いのは、その兆候だろう。私自身は、社会は私たちそのものであると認識している。「社会が悪い!」とは「私たちが悪い!」と解しているのだ。人と人との関係性について考えた結果導き出された答えであることは言うまでもない。そして、日本はその人と人との関係性が薄れた社会と化したことについても何度も述べている。哲学・社会学の言葉を借りるなら、日本はディスコミュニケーションの社会に突入してしまったのだ。
 これについて、フィクションの世界ではツール(技術)の発達がもたらした弊害などと断じているものがある。学者の見識でもそういうものが見られる。たしかに、インターネットや携帯電話などの情報端末の発達によって、人は直接会わなくてもコミュニケーションがとれるようになり、その弊害として部屋――ここでいう部屋とは、物質的な意味においての部屋であり、同時に、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』で描写されるような内的世界としての“部屋”をも意味している――に閉じこもる人間が増えた。わざわざ外に出て人とコミュニケーションをとる必要がなくなったのだ。携帯電話を食い入るように見つめる人間、両耳にMP3プレーヤーに接続したイヤホンをつけている人間、ファンデーションの粉が他人に飛び散ることを考えず平気で人前で化粧をする女性、扉の前に立ったままで他の人が乗り降りする際に場所を開けない人間……。そういった人間がいる電車の中の光景を思い起こしてほしい。恐らく、思い起こす必要がないほどに当たり前の風景となっているのが実情だろうと思う。彼らはほかの乗客のことなどまったく気にしない。だから、携帯電話の使用を禁じる車内放送が流れていても、平気で大声で通話できる。イヤホンの音漏れで他人が不愉快になっていてもおかまいなし。化粧がもたらす“被害”を悪びれることもない。自分が邪魔で他人が乗り降りに困っていることを気にすることもないのだ。自分のことしか頭にないと解釈するほかない。ここまでの文の流れだと、技術の発展で人間が馬鹿になったという風に考えることができるだろう。それは間違いではない。だが、技術の発展で物的な豊かさを手に入れたこと、その技術の発展が人間の欲望によってもたらされた結果であることを踏まえると、技術の発展を悪しき原因という風に捉えることは単線的な解釈でしかないのである。そこには私たちが技術の発展のなかでこれまでの倫理観を捨てているかもしれないという認識は存在しない。映画監督の伊丹万作は、自身のエッセイで戦争責任に触れたとき、騙された側にも騙した側と同じく責任があるはずだと述べている。
 技術の発展はイコール人間の発展ではない。新技術を世にもたらした学者個人にとっては成長に繋がるものであろうが、私たちは恩恵しか受け取ることができないのだ。
 私たちは技術の発展を自身の発展(あるいは進歩)と勘違いし、その技術に溺れただけである。ディスコミュニケーションはその結果の産物なのだ。
 ブログ、ツイッター、フェイスブックなどのソーシャルメディアの出現で、人は外に出なくても人と関わりを持てるようになったかにみえる。私たちはソーシャルメディアによる人と人との繋がり(が広がったこと?)を賛美するが、それは浅はかだろうと思う。なぜならそれは、ソーシャルメディアというツール(道具)、メディア(媒介)がなければ他者と繋がりを持つことができないという言葉の裏返しに過ぎないからである。私たちは、私たちが思う以上に優れた生物ではないということだ。

 ここで誤解してほしくないのは、私自身は技術の発展を良いものと捉えている。私が問題としているのは、技術の発展を自己の発展と誤解し、増長し、エゴイズムのままに人と人との生活において負荷をもたらす存在が増えてきていること、そういう“輩”の存在だ。また先に例として挙げたソーシャルメディアは一例に過ぎず、これがすべての要因としたわけではない。
 そう、ニュースや新聞などを通じて様々な問題が取りざたされているが、そのすべてが、社会(に生きる私たち)がもたらしてしまった結果である、あるいは望んだことである可能性が高いのだ。NHKは「無縁社会」をマイナスイメージの事象として捉え、私たちもその言葉を悪いものと捉えてしまいがちだ――ディスコミュニケーションを“問題”と捉えるように。だが、一方で無縁社会やディスコミュニケーションの時代が到来したことで助かっている人間も存在するはずだ。
 だが、そういうことが考えられても、やはり私は人と人との関わりが希薄になった現在の日本を問題であると憂えてならない。孤独死や自殺者が増加する社会を私たちが心から望んだとは、どうしても思えないし――どうあっても思いたくないのである。私たちのちょっとした不注意がもたらした結果であると思うのである。そして、これは一時的な結果であり、現在も継続中の事象であることも“明記”しておく。この状態――無責任社会の継続の果てに素晴らしき未来を考えることは限りなく難しいことも暗喩として。



     5

 さて、この項ではここまで述べてきたことを整理してみたい。
○昔からそうだったのかもしれないが――現代とくに“現在”の日本は「無責任社会」といっても過言はない状況にあるのではないか。また、昔以上にその状況は悪化しているようにも感じられる。
○自分に、またその周辺に対して無責任であるにもかかわらず、多くの人々はなにか事件・事故が発生したときには他者に責任を求めたがる。また、特定の物事に問題を感じても、自分では何もしようとせず、他者にすべてを委ねがちである。なぜならば、私たちは自分のことにしか関心がないからである。
○技術・文明の発達とともに人間は愚かになっていくように感じられるが、それは人間が望んだがゆえにもたらされた結果ともいえる。だからといって、現在の状況が継続することを良いとは思っていない。むしろ、この状況を改善すべきと考えている。

では、改善すべき策はあるかというと――決定的なものは存在しない。法律など、権力を駆使して人々にあらゆることに責任(感)をもたせるようにするというプランも考えられないことはないが、権力をもってしても人間を抑えつけることはできない。それはこれまでの人類史が証明している。権力者は恐怖と暴力を以て人々を抑えつけていたが、その権力体制が長く続くことはない。長く続いても、200年くらいである。人間のエゴイズムは権力以上に人間そのものを支配し且つある意味で抑圧するのだ。知識人による啓蒙活動も一時的には何らかの効果をもたらすかもしれないが、永続的である保証はない。
 では、このエッセイも無用な駄文なのか。
 そういうと、これまで書き連ねてきた意味がなくなってしまうし、何よりも読んでくれた方を裏切ることとなってしまう。
 そこで私自身の理想をここで述べたい。

 最初に、“決定的な策はない”と述べた。「明確な答え」というべきかもしれない。つまり、「こうすれば絶対に解決できる」という確かなものがないということだ。また、仮に問題を解決できても、別の問題が浮上するかもしれないのだ。
 ここで私が言いたいのは、どんな問題にも答えがあるとは限らないということだ。それに、答えを求めることよりも重要なことがあるとも思っている。
 それが、私の理想である対話による解決だ(矛盾の生じる文言であることは承知だ。そこは読む人の感性に委ねたい)。
 対話というと高尚なものに感じられるが、なんのことはない。コミュニケーションのことだ。お互いがお互いについて触れ合い、語り合い、世の中で起きている問題について考え合うこと。それが対話なのだ。「哲学する」といってもいい。哲学とは哲学者や社会学者といった高尚な、限られた人間のための学問ではない。私(わたし)が私(わたし)について、世の中のことについて考え、他者と対するための智慧なのである。最近、マイケル・サンデルなどがもてはやされ、哲学ブームともいえる現象があらわれている。本屋の特別コーナーで哲学関連の書物を見ることも少なくない。だが、それらは哲学関連の本であって、そこには「哲学する」ことの大切さを述べたものは少ないし、見つからない。学問ばかりが重視され、その実践が軽んじられているのだ。大学の権威の失墜も、根源はそこにあるのかもしれない。
「コミュニケーションが大切である」ことは私がいちいち言うまでもないことだと思う。世間のあちらこちらで同じことを主張する人間がいるわけだしだ。例えば、企業のほとんどの採用ホームページで、採用したい人間の条件として「コミュニケーション能力のある人間」などの項目が掲げられている。だが、そこでのコミュニケーション能力というのは、「人と話せること」に留まっているのがほとんどだ。本質にせまったものなどなきにひとしい。
 私たちは独りでは生きてはいけない。その存在は他者によって成り立っているのだ。
 私(わたし)が私(わたし)という存在を認識できるのは、他者によって概念を教えられ、与えられたからである。私がこのような文章を書き連ねることができたのも、父や母、学校の先生が私に言葉や文章の書き方を教えてくれたからにほかならない。よく「人は独りでも生きていける」と主張する者がいるが、その者は恐らく赤子の頃の自分をまったく知らない者なのだろうと思う。他者は概念だけではなく、物質をも与えてくれる。つまりは道具だ。「独りでも生きていける」と主張したい人間の気持ちは分からなくもない。「独り暮らし」という言葉だってあるわけだし。私が言いたいのは、人間は必ずどこかで他者と接触するということ、その影響を受けずにはいられないということなのだ――それが積極的にしろ、消極的にしろ。
 無責任社会とは人々があらゆる事柄に無責任でいる状態だと述べた。だが、いまだ「責任を持つ」ということの意味については答えていないのでここで述べたい。責任を持つとは、なにも法的ないし慣習における責を負うことだけではない。簡単にいえば、他者が直面した出来事を、自分のことのように感じ考えられるか、「他人事」という考えを出来る限りやめられるか、である。それは、対話によって、コミュニケーションによって得られるものである。他者を知らなければできない認識なのだ。
 たしかに、技術と文明の発達によって――それがたとえ表面的にしろ――人間の暮らしは豊かになった。だが、人間そのものはまったく変わってない。勝手に成長していると思い込んでいるだけだ。ソーシャルメディアの発達で誰とでもコミュニケーションをとることができるようになった、友達の輪が広がった、と自慢げに言う人間がよくいる。だが、本当にそうなのか。そう言う人間は自分が住む地域の人間とどこまでコミュニケーションをとれているのだろうか。どれほどお互いを理解できているのだろうか。ソーシャルメディアによるコミュニケーションはメディア(媒体)というツールを介してのコミュニケーションでしかない。電脳空間のコミュニケーションでしかないのだ。それらを承知の上で行っている人間がどれほど存在するだろうか。ブログによるコミュニケーションも、それがないよりかはマシだと思う。だが、現実には響きにくいのだ。繋がっているという錯覚でしかない。
 私は人と人との直接のコミュニケーションが、対話が大切であると言いたいのだ。それは古い考えかもしれない。世の中は、社会は、様々なツールのおかげで人と人とが直接会う必要がないように発達してきているのだから。だが、それは発達という名の“孤立化”でしかない。自分の殻に閉じこもり、エゴイズムが肥大化していくだけなのだ。風船は膨らみ続ければいつかは破裂する。エゴイズムという風船の破裂が招くものがなにかは分からない。ただ当たり前のように世間で語られることは、エゴイズムが悪しきものであるという認識のみ。
 今の日本の政治について、あるいは社会について考えるということは、私たちが自分たちの過去から未来についてどう考えているか、のあらわれでもある。
 私たちが私たちについて考えることをやめればやめるほど、社会は無責任社会の傾向を強めていく。無責任社会というのは私の幻想なのかもしれない。それならそれでもかまわない。だが、これが幻想でなく現実の事象であるならば、その事象が迎える結末はいかなるものなのだろうか。









<参考URL>

『若年層の意見力は団塊世代の三分の一!? 投票者ピラミッドをグラフ化してみる』
http://www.garbagenews.net/archives/1282044.html

『第45回衆議院選挙全体の結果』
http://www.soumu.go.jp/main_content/000037492.pdf

『質問・疑問に答えるQ&AサイトOKWave』より
http://okwave.jp/qa/q6130849.html

『「空気読め」の正体は全体主義だった』
http://unkar.org/r/history/1286423180

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No title

長い・・・
でも大雑把ですが読ませて頂きました。
日本人は、流されやすい人種なんですね!!

Re: No title

コメントありがとうございます。
だいたいそのような意味です♪

ただ、もともと人間は集団になると流されやすくなってしまうので
これは日本人特有のことではないことを付け加えておきます。

このテーマについては参考文献などを紹介するかたわら、折に触れて
深く考察していきたいと思いますので、よろしく。

No title

わっかりましたっっ!!

No title

いつもブログへのコメント有難うございます。

記事下部の「参考・関連文献」を読みましたが、このテーマですと、宇野重規さん著の「〈私〉時代のデモクラシー」という本を読んでみると面白いかもしれません。僕は読んでいませんが、東浩紀さんの「一般意志2.0」の中で「〈私〉時代のデモクラシー」が「人々がみな自分のことしか考えず、政治や公共圏への関心を失っていくことの不可避性を説く」本だと説明されており、この記事のテーマと合致するのではないかと考え紹介させていただきました。もし宜しければ参考にしてみてください。

Re:

lingmuさん、
参考文献の紹介、ありがとうございます!!

実は、この長い記事(苦笑)を書いたあとに、映画監督の押井守が書いた
「コミュニケーションは、いらない」という本を読んだのですが……。
そちらに私が言いたかったことのほとんどがすでに記されていました(泣)
もっと勉強しなければならないという思いでいっぱいです。

東浩紀さんは大学の文学研究の授業などでよく名前を聞いたりするのですが、
著作は読んでいないので、この機会に一読したいと思います。
もちろん、宇野重規さんの本も。

また参考になる書籍があったら紹介をお願いします。
プロフィール

黒 紅 茶

Author:黒 紅 茶
どこかの田舎っぺです。
ブログタイトルの“Of”は
飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
読んでくださいな。

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