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<自己責任>とは何か

バイトが終わって疲れているだろうに、こうしてキーボードで
文字を打ち込んでしまう不思議さ(笑)

……桜井哲夫の『<自己責任>とは何か』について紹介したい。




本の内容:

世間に氾濫する自己責任を無責任システムと断じつつ、
日本の歴史における『責任』という概念について考察したもの。
この本が出版されたのが今から13、4年前の話。
バブル崩壊後の時代で、総理大臣はたしか小渕(もしくは森?)だったと思う。

自殺率の増加などを除いては、今とほとんど変わらない時代背景。


私が自己責任という言葉を耳にしたのは高校に入る前後。ちょうど小泉政権から
安倍政権への移り変わりの時世だったと思う。よくテレビの前で小泉首相が
「自己責任が○○」とか、そんなことを言っていたような気がする。他のメディアでも、
個人の責任の問題と言うのが取りざたされていたような……。

本書でも語られているが、この『自己責任』という概念が世に浸透したのは
ここ20年くらいのようである。

著者である桜井は、何でもかんでも『自己責任』という言葉で解決しようとする流れに
疑問を感じ、自己責任は責任転嫁の概念に過ぎないという結論を見出すに至った。

彼は、日本の思想家として有名(らしい???)丸山真男の『無責任の体系』を
テクストとし、近代の日本人間の『責任』という概念を追う。
丸山の本についてはまだ一冊も読んだことがないので、桜井の解析については
疑問を抱くデータソースが存在しない。

丸山の本によれば、戦時中の軍部は、戦争責任については「天皇の命令で行った」と
主張し、戦争責任を潜在的にも逃れようとしたらしい。自分たちが戦争を起こしたという
自覚が欠如しているというのだ。権威主義による支配構造がそのような状況を生み出したとも。

「天皇からの距離」が権威づけの根拠にあるような社会では、独裁者が恣意的に権力を
ふるうという図式は生まれない。すべての人間や組織が互いを拘束し、牽制しあうという形と
なっているからだ。だから、誰か一人が独裁的権力をふるっているとか、どこかの組織が
権力をふるっているという意識は生まれてこなかった。

(65P)


一方、戦時中おなじ政治体制(=全体主義)の国家であったドイツの場合は、
ナチス・ドイツの総帥たるヒトラー及びナチス上層部に責任があり、同時に彼らを
支持した国民にも責任があったという総括が為されているらしい。余談だが、ドイツでは
ヒトラーの著作は発禁扱いとなっており、ナチスの紋章であるハーケンクロイツも不可と
なっている。このあたりは、表現の自由と関わりのある問題であるが、ナチス・ドイツへの
総括はそういったものを超越したものであるようだ。ただし、「ネオナチ」など、
ナチズム信奉者は依然として存在しているようで、ドイツの戦後教育及び戦後史観が実際の
ところどのようなものであるかは現地に行かなければ分からないだろう。

丸山は、『無責任の体系』などをはじめとする著作において、近代(戦時中含め)の
日本は無責任気質をもった社会であり、その源泉は古来にあると指摘したらしい。
そのことについて、桜井はメスを入れる。彼がいうには、歴史の流れ、思想の変遷は
一枚岩ではなく、丸山がいうように順を追うように思想概念が流れて行くはずはないと説く。
桜井は、明治期における海外思想の激しい伝来に着目する。簡単にまとめてしまうと、
明治期の日本は海外の思想概念を中途半端な形で取り入れてしまったのである。
それがマトモに育たず、変な方向に行ったりしているために不具合が生じているのだ。

「責任」という言葉は、ほんらい「ある約束に対する」応答であった。それが、
いつのまにか権威主義など、個人を圧迫する考え方に汚染され、「自己責任」という名の
責任転嫁・無責任主義といえる曖昧な(強迫)観念を生み出してしまったのだ。

桜井は、ある問題に対する「責任」は、段階的な手続き――つまり問題のルーツにさかのぼり、
失敗を検証したうえで問題の責任を明確化するべきだと主張する。自己責任は、そのプロセスを
ないがしろにするものなのだ。

直接責任のない者に対して共同責任や連帯責任をとらせるのは、失政をごまかす権力者の
常套手段なのです。「自己責任」という言葉も、責任概念を曖昧化する方向でしかないことは、
明らかだと言えます。

(194P)

だからといって、直接責任のある人間だけがすべての責任をかぶるべきという
意味ではないことを忘れてはならない。

本書で問題としていたことは、人間は何かしら問題に対して責任を求めたがる、それも
他者に対して……ということだったのではあるまいか。

この間のessaiでも述べたが、誰か特定の人間のみが責任を負うのではなく、多くの
人が問題について、他人事ではなく自分事として考えることが大事なのだ。
「責任を負う」「責任を負わない」ということで言い争う前に。

法的もしくは慣習的責任と言うものは、著者が本のなかで述べたように、段階的な手続きを
経て行えばいいのだ。


就職問題でもそうだが、「企業」「大学」「学生」など、実体のある存在に対して
人は批判と責任追及の目を向ける。標的を探しているのだ。強迫観念などの実体のない
存在には手も足も出ないからである。しかし、責任の所在探し――それも荒探しをやっていても
何の問題解決にも至らないのである。

「自己責任」や「責任」という言葉を使う前に、私たちは様々な問題を
冷静に見つめる目が必要なのだ。

しかし、100%を目指すのは難しい。だが、50%でも達成できていればそれでいいはずだ。
とにかく、哲学あるのみなのだ。


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