スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「異邦人」

アルベール・カミュの『異邦人』を読んだので、それについての紹介と感想をかく。





あらすじ:

アルジェリアのアルジェに暮らす、青年ムルソー。
彼のもとに、彼の母の死を知らせる電報が養老院から届く。
母の葬式に参加したムルソー。だが、彼は母親の死に対して、何の感情も
示そうとはしなかった。そんな彼は、旧知の女性であるタイピストのマリィと
肉体関係を持つようになる。母親を失ったにもかかわらず、彼は悲しむ素振りを
みせず、マリィと映画館に行ったり、一緒に泳いだりしていた。
マリィはムルソーを愛していたが、彼には彼女のような愛なる感情はなかった。
しかし、マリィは彼を愛することをやめようとはしない。

ある日、彼は友人レエモンのトラブルに巻き込まれる。レエモンは
アラビア人の女性に暴行をふるったことで、女性の兄から恨まれ、
命を狙われてしまったのだ。レエモンはアラビア人を返り討ちにしようとする。
トラブルと関係のないムルソーであったが、彼はレエモンにかわってアラビア人を
拳銃で射殺し、逮捕される。

裁判にかけられることになったムルソー。
アラビア人を射殺したことや、母の死に無感情であったことなどから、裁判では
冷酷な人間であると証言される。裁判官らはムルソーを異様な人間とみていた。
彼は裁判自体にも関心を示さず、裁判の最後で殺人の動機を問われたさいには
「太陽がまぶしかったから」と答えた。彼には罪悪感のかけらもなかった。

判決は死刑宣告。ムルソーはそれすら関心を示さず、上訴もしなかったため、
彼の死刑が確定した。留置場に司祭が訪れ、ムルソーに悔い改めるように諭すが、
改心するつもりのない彼は司祭を追い出す。
留置場の中でムルソーは、死刑の瞬間に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望にする。
どういうわけか、彼は幸せな感情をもっていた……。









このあらすじを読んでも、「いったいなに?」と思ってしまうだろう。
物語は一人称で語られるが、語り手(とされる?)であるムルソーの感情というものが
よくわからない。終始、無感情なのだ。

自分のことを物語っているにもかかわらず、自分自身に対して無関心なわけである。
三島由紀夫の『仮面の告白』では同性愛の悩みが一人称で、
太宰治の『人間失格』では対人恐怖症と思われる主人公、葉蔵の独白が記されている。

それらの作品の独白とは一線を画すものであることは間違いない。
三島も太宰も、その作品の主人公は自己の存在について悩み苦しんでいた。
しかし、『異邦人』に登場するムルソーはそうではない。まるで自分という存在を
他者のようにみているのだ。

そして、そんな彼(ムルソー)を周囲は奇異の目で見る。
母親の死に心動かされない男。
恋人の愛に応えようとしない男。
見ず知らずの男を無表情で射殺する男。
特赦請願をあっさりと断り、死を選んだ男。

ムルソーは冷徹な人間として社会から抹殺される、その直前で物語は幕を閉じた。
社会にとって、ムルソーは排除すべき存在であった。無感情の人間は人間ではないのだ。
だが、はたしてそうなのだろうか? という問いかけが本作のテーマではないか。

――異邦人

たしかに、ムルソーは私たちが考える「人間」という存在と比べると、人間らしくない。
だが、私たちのもつ人間像というものは、都合のよい解釈である。その解釈において、
彼は人間らしくないだけなのである。

ムルソーが裁かれたのは、彼が人を殺したからではない。
彼がふつうの人と違うから、殺されたのである。 と私は思う。

ふつうの人ではない人間を排除する社会。
だが、ふつうの人間とはいったいどのような人間を指すのであろうか?



友人との会話のなかでも、「ふつう」という言葉がよく出てくる。
だが、誰も、この言葉の意味について触れようとはしない。

考えてみれば、この言葉は不可思議なものだ。
よく分からないものであるにもかかわらず、私たちはそれを知ってるつもりで
利用している。定義がないのに、だ。


さて、ふつうではない主人公ムルソー。
彼の死生観が語られる部分がある。

「そのときは死ぬときだ」他のひとより先に死ぬ、それは明白なことだが、
しかし、人生が生きるに値しない、ということは、誰でもが知っている。
結局のところ、三十歳で死のうが、七十歳で死のうが、大して違いはない、という
ことを私は知らないわけではない。というのは、いずれにしたところで、もちろん
他の男たちや、他の女たちは生きていくだろうし、それにもう何千年もそうして
来たのだから。要するにこれほど明らかなことはないのだ。今であろうと、
二十年後であろうと、死んでゆくのは、同じくこの私なのだ。このとき、こうした
推論のなかで多少私を苦しめたのは、それは、これから先の二十年を考えたとき、
私が胸に感じたひどい興奮だった。しかし、それは二十年たって、やっぱりそこまで
ゆかねばならなくなったとき、自分がどう思うかを想像することによって、息の根
止めてしまいさえすればよかった。死ぬときのことを、いつとか、いかにしてというのは、
意味がない。それは明白なことだ。だから、(難しいのは、この「だから」という言葉が
推論上表すところのいっさいを、見失わないということだ)だから、私は特赦請願の
却下を承認せねばならなかったのだ。

(P117-118



自分が生きていることについても、まともに考えられていない。
そう言う風な印象をうける記述である。

私が本作品を読んで思ったのは、ムルソーはたんに自分という存在をうまく
表現できなかっただけなのではないか。本の解説かどこかの書評では、ムルソーは
自分の哲学に殉じる形で死ぬとかいうことが記されていたが、彼のその哲学というものも
曖昧なのである。『気狂いピエロ』の主人公フェルディナンのような感じもある。
(もしかしたら、ゴダールはカミュの影響を受けたのかもしれないが、どうだか……)


ムルソーにとっての不幸は、彼には彼を理解してくれる存在がいなかったことだ。
彼は死刑宣告を受けたにもかかわらず、「幸せ」であるといっているが、
彼の中には「幸せ」という概念ははたして存在するのだろうか。不幸という概念も
存在しないのかもしれない。あるのは無常感だけか。




読み終わって一日経つが、いまもモヤモヤした気分に包まれている……。

ブログランキング・にほんブログ村へ

(↑)清き一票と温かいコメントをください!!!
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

Secret

プロフィール

黒 紅 茶

Author:黒 紅 茶
どこかの田舎っぺです。
ブログタイトルの“Of”は
飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
読んでくださいな。

↓↓ポチッとな↓↓
QRコード
QR
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
FC2カウンター
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
映画
395位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
レビュー
190位
アクセスランキングを見る>>
最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
お気に入りリンク集
Web page translation
検索フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。