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「孤独と愛 ―我と汝の問題―」

大学の友人Wに勧められて本を読んだ。
マルティン・ブーバー著「孤独と愛 ―我と汝の問題―」がその本のタイトルだ。

はじめ、本屋で探してみたが見つからず、ネットで検索をかけても無く……(泣き)
通っている大学にはなぜか二冊存在した。うち一冊はWが借りていた。

今回、私がこの本を手にしたのは、二人でこの本の内容について語り合うためだ。



ということで、ブーバーの本の内容について、次に著者について触れたい。


(※左のぶんは図書館で借りたもの、これから出てくる引用文はこちらから引いた)





本の内容:

人間、世界はふたつの根源語「われ」「なんじ」で成り立ち、その対話が
さまざまな広がりをもたらすという実存主義的考察の論文。




というと「何のこっちゃ!?」と文句を言われそうだ。



この本は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉について
疑問を唱えている。つまり、ここにおける“我”とは何かということについて。

咀嚼して解説すると、ブーバーは次のような考えをもっている。
私(わたし)という存在が自分のことを私(あるいは“我”)と認識するのは、私(わたし)が
そうではない存在と接触することではじめて可能であるとしている、と。

私たちが当たり前のように使っている言語は、私たち自身の手で身に付けた者ではない。
親や教育者といった存在による教育によって身に付けたものなのである。

私(わたし)が自己を、私(わたし)と認識するのも、他者の影響によるものなのである。


はじめに関係あり
(P26)

この言葉は、旧約聖書の文言のパロディともとれる。
著者であるブーバーはシオニスト(ユダヤ教主義者)で、本書にはその思想の影響が
感じられる記述がいくつも存在する。上記のこの文言も、そんな一例である。


対人関係があり、そこからコミュニケーションの手段としての言語、ものごとへの
認識(世界像というものも含め)が生まれるとしているのだ。


憎悪は、相手の全体を見ない。その一部分を見るにすぎないのである。
(…中略)相手を一途に憎悪する人間は、愛も憎しみもない人間より、はるかに
いっそう関係に近づいている。

(P26)


しかし、この対人関係(本文における「われ」「なんじ」の関係)というものは
常に歪んだものとなっているのが現状だ。というよりも、歪んだ認識でしか
他者というものをみることができないのである。真の対話とは、
歪んだ認識――つまり一切のフィルターをもたないコミュニケーションということだろう。
俗世的なもの、そういうのを廃さなければ、真に人は分かりあう事ができないということ、と
私は(ブーバーの主張をそう)考える。


人間のうちにあらわにされる精神とは、まさになんじにたいするそのひとの
応答(いちえ)のことである。ひとは多くの言語を語る。その言葉には、実際に語る言葉あり、
芸術という言葉あり、また行動という言葉がある。しかし、精神は一つ、なんじにたいする
応答である――神秘の奥底からわれわれに話しかけるなんじにたいしての応答である。
精神は言葉である。ところで、言葉による話は、はじめてひとの頭のなかで言語の形式を
とり、つぎに咽喉で音となる。しかし、そのいずれのはたらきも、たんに真の真実の
ゆがんだ切れはしにすぎない。なぜなら、実際は、言葉はひとのうちには宿らず、
かえってひとが言葉にうちに宿って、そこから語りかけるからである。

(P58)



世界というものは究極的には「われ」と「なんじ」の関係でなりたつものなのである。
したがって、国家や社会、政治制度や経済というものはその関係を繋ぐ間接的なもの、
すなわち道具に過ぎないのである。しかし、道具であるべきそれらのものが、今日では
「われ」と「なんじ」という根本的なもの(関係)を脅かす概念として存在している。


真の自由人とは、我意の命ずるところによらずして、ものを意志し得るひとをさしていう。
自由人は現実を信ずる。すなわち、われとなんじという二つの実存の真の結合を信ずる。
また、自由人は運命を信じ、また運命がかれを必要としていることを信ずる。運命は
自由人を束縛しはしない。いや、運命はかれがやってくるのを待っている。だから、
かれは運命のもとまで赴かなければならない。

(P88)


私たちは日々の生活のなかで喜怒哀楽を感じている。それらは運命によるものなのだ。
そして、ここでいう運命というものは、「何らかの行動の結果」と解することが出来る。
つまりは因果応報なのだ。私(わたし)がどのように生きるのかという問いは、
私(わたし)は他者とどのように接していけばよいのだろうか、という問いでもある。





ここまでくれば分かるが、本書は実存主義的内容である。
難しい言葉が並びたてられていて、分かりにくいが、簡単にいってしまえば、
「われ」と「なんじ」という根本を理解しつつ、個人がどう生きるべきかを説いたものなのだ。




最後のほうでは、神と人間との対話について触れている。


われわれは心のうちで、なによりもまず神が必要であることを知っている。
しかし、人間が神を必要とするように、神も人間を必要としていることを知らない。



神が実在するかは定かではないが、少なくとも概念としては神は存在している。
概念のなかで神は生きているのだ。そして、神を信じる人々はその概念を
信じている。信じる人々によって神は生きている……。つまりは、人間が
神という存在を認識(あるいは認知)しなければ、その存在は世に実在したとしても、
いないも同じなのである。





…眠いこともあって、なかなか説明しにくい。




著者の言わんとしているところはなんとなくわかるけれど、
昔の人ということもあって、どこかネチネチしている。また、ヤスパースなどの
本をすでに読んでいたこともあって、新鮮味にかける。
(じっさい、翻訳本も多いとはいえないし……それが語るのは何か、いうまでもない)




だが、実存主義やドイツ哲学を学ぶうえでは、歴史勉強として役立つ書籍だと思う。
予備知識が多分に必要なものであるが……。





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