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「勝手にしやがれ」

乱心の数日間を過ごしたわたくし黒紅茶。
今日は某社の筆記試験を受けたのだが、その成果はいちじるしくない。
…別に数日前の出来事とかが原因ではない。たんじゅんに勉強不足だっただけかな。
…とりあえず、当分はあのベスト電器界隈を歩くのは辛いわ。。。






とまぁ、それはさておき。。。ブログの更新といきたい。




紹介するのは、ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」


この間ベスト電器で買ったゴダールのボックスに収録された作品の一つ。
(残りは、「気狂いピエロ」と「軽蔑」)









あらすじ:

自動車泥棒の常習犯であるミシェルは、マルセイユで警官を射殺してしまい、
追われる身となる。そんな彼はパリにやってきた。パリには彼の恋人パトリシアや、
金を貸したアントニオという男などの知り合いがいた。
パトリシアは新聞社で働くアメリカ人留学生で、ミシェルとは他所で
知り合い、顔見知り以上の関係となっていた。彼女はミシェルとの
関係や自らの感情について思いを巡らせていた。そんなパトリシアに、
ミシェルは一緒にローマに行かないかと誘う。

ミシェルは逃走資金を手に入れるためにアントニオを探す。そんな彼を
捕まえようと警察は迫りくる。

ミシェルが指名手配犯だということを知ったパトリシア。彼女は恋人である彼と
逃亡することにした。警察の包囲網が狭まるなか、ミシェルはアントニオから
資金を得る算段を立てる。ところが翌日、パトリシアはミシェルの居所を警察に
密告してしまう。彼女はこれまで自らの感情を確認するためにミシェルと一緒に
いたが、やがてミシェルと一緒にいたくはないという結論に辿り着いたのだった。

パトリシアに裏切られたことを知ったミシェル。自らの行く末を悟ったミシェルは
仲間の誘いを断り逃亡を拒否。警察によって撃たれる。

倒れた瀕死のミシェルに駆け寄る警察とパトリシア。ミシェルは「もう、うんざりだ」と
言い残し、自らの手で瞼を閉じて息を引き取る……。



















長回しやジャンプカットの多用、カメラに語りかける主人公、詩的な会話……。




そのどれもが、ハリウッド映画とは異なる演出である。
この映画を始めてみる人はクエスチョンマークを頭に浮かべながら見ることになるだろう。
そして、こうも思うかもしれない――「これ、素人の映画!?」と。



「サイコ」や「太陽がいっぱい」など、同年代の映画と比べれば、その演出の
異質さはさらに浮き彫りとなる。




実は、監督であるゴダールはそれまで映画人ではなかったのだ!!!
それが、この映画の演出の異質さの最大の理由といえよう。



彼、ゴダールはもともと単なる映画ファンで、カイエ・デュ・シネマという雑誌の
執筆者に過ぎなかった(日本でいう「キネマ旬報」的なものだ)。
そんな彼は雑誌で映画批評をしながら、短編映画を撮り始めいくことになり、やがて
長編デビュー作として「勝手にしやがれ」を製作するに至る。

非映画畑のゴダールの作品は、
映画畑の作品ばかり見てきた(マンネリも感じていた?)観客に衝撃を与えた。

観客はゴダールの演出を斬新と評価し、ゴダールは映画作家として知名度を高めていく。



そしてゴダールのように、映画学校で学んだことのないような平凡な若者たちが、
カメラを手に映画を作るようになっていく。それは、それまでの映画製作のシステムの
変革であり、映画の業界用語でいう「ヌーヴェルヴァーグ」の時代の到来であった。





ヌーヴェルヴァーグ

訳語は「新しい波」。今でも文化的な事柄で使われることもあるが、もともと
この語は、ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどの非映画畑の映画作家たちを
指す言葉として使われていた(細かく言うと微妙に違うが…それはご勘弁!!)

彼らはそれまでの既存の映画文法(あるいは映画畑の者たち)にアンチテーゼを
唱えたのだ。いわば、映画のカウンターカルチャーというべき運動でもあったのだ。

「勝手にしやがれ」や「大人は判ってくれない」といった作品の登場で、
ヌーヴェルヴァーグの時代は到来した。

だが、“到来”という語を用いれば、当然その逆の言葉を使わざるを得ない。
フランス映画界のみならず、ヌーヴェルヴァーグ現象は世界の映画界に影響を与えた。
しかし、フランス国内ではその勢いは60年代後半からしだいに弱まっていく。
(詳しい流れはキネマ旬報やその他の書籍、ウィキなどで見ていただければ幸いだが)
単純にいうと、二つの背景があると思われる。





ひとつは製作者(ヌーヴェルヴァーグの映画人)たちの勢いの問題

盟友関係にあったゴダールとトリュフォーの決裂や、
ヌーヴェルヴァーグの映画人とフランス映画界との対立(例:カンヌ映画祭)、
ゴダールの路線変更(脱商業主義映画への移行)、

こういったものが含まれる。


もうひとつは、時代の変化

ヌーヴェルヴァーグの作品は基本的に反体制の物語といわれるそうだ。
(その作風が後にアメリカン・ニューシネマに影響を与えることになる)
世の中の不条理や体制の冷酷さなど、そのようなものがヌーヴェルヴァーグのテーマで、
当時の思想の潮流にあったサルトルの実存主義などとも共鳴するところがあった。
また社会主義思想も激しい勢いを持っており……
短くまとめると、1960年代は
若者が大人たちに反逆をした時代といえる。
だが、その時代は社会主義思想の行き詰まりや
ベトナム戦争突入などによって終わりを迎える。若者がもっていた異常なまでの熱気が
冷めたのである。それは当然、クリエーターたちにも影響を与えた。
ヌーヴェルヴァーグの映画人の場合、それまで描いてきた作風というものが時代に
合わなくなってきたのである――限界に辿り着いたともいえるだろう。





こういったことに直面し、ヌーヴェルヴァーグは衰退した。
しかし、そのエッセンスは様々な映画に色濃く残っている。
















とまぁ、映画本編ではなく、映画史的な解説になってしまったが、ここから
感想めいたものを綴りたい。




ミシェルを演じたジャン=ポール・ベルモンドは、本作のヒットとともに
一躍スターダムにのし上がったそうだ。

彼が演じるミシェルはとてもニヒリスティックで且つエゴ丸出しのチンピラだ。
その顔つきは、かっこいいとはいえない。どこかナヨナヨしている。だが、
何か惹かれるところがある――危なさと見るべきだろうか。




彼が死ぬラストシーンはとても印象的である。
あの台詞の意味は、はたして刑事の解釈通りなのだろうか???


そんな彼を死に追いやるパトリシア。演じるはジーン・セバーグ。
サガン原作の映画「悲しみよ、こんにちわ」で有名となり、彼女の髪型は
“セシル・カット”として流行になったそうな。

そんな彼女が演じたパトリシアという女性は、後につくられる「気狂いピエロ」の
ヒロイン・マリアンヌと比べると、とても平凡である。
彼女の心変わりも、それほど劇的とはいえない。だが、その平凡さが物語に
リアリティ――私たちが生きる現実に近い感覚――を出しているのだろう。
(ちなみにウィキによると、彼女はとても悲惨な生涯を歩むことになるそうな……)





ベルモンドとセバーグ。
ふたりの掛け合いはとても詩のようだった。意味があるようでなさそうな
会話をつづけて行く様は、下手をすれば観客を飽きさせる。だが、ときどき出てくる
過激な言葉が観客を惹きつけて仕方がないのだ。
(ウディ・アレンの場合は、どこかネチっこくて嫌なのだ!!!)






物語はベルモンド演じるミシェルの死によって幕を閉じるが、
終わったあとに感じるこの不可思議さはなんだろうか。
決してハッピーエンドではない。だが、バッドエンドといえるような
後味の悪さは感じられないのだ。あっさりしているというべきだろうか?

死に際に、ミシェルはいったい何を思ったのか。
気になる黒紅茶であった。。。。。
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黒 紅 茶

Author:黒 紅 茶
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ブログタイトルの“Of”は
飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
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