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「軽蔑」

「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」に引き続いてみた作品は「軽蔑」。
(同名の日本映画とは間違っても関係がないのであしからず!)


ついさきほど見終わったばかりの作品。
そのあらすじをいつものように↓↓↓



あらすじ:

劇作家のポールにはカミーユという美しい妻がいた。二人は互いを深く愛し、
良好な関係にあった。ある日、ポールはプロコシュというアメリカ人プロデューサーに
呼び出される。プロコシュはドイツ人監督フリッツ・ラングと「オデュッセイア」という
映画を製作していた。ギリシア神話を元にした物語であったが、商業主義者である
プロコシュは映画の脚本が気に入らなかった。プロコシュはポールに映画の脚本の修正を
依頼する。打ち合わせのあと、ポールとカミーユはプロコシュの家に招待される。
カミーユを気に入ったプロコシュは、彼女を自分の車に乗せる。カミーユは
ポールと一緒にタクシーに乗って家まで行きたいと言うが、ポールはカミーユに
プロコシュの車で家まで行くよう促す。

タクシーの事故があって30分遅れでプロコシュの家に到着したポール。
ポールはプロコシュと談笑するが、なぜかカミーユは不機嫌になっていた。
プロコシュに何かされたのではないかと質問をするポール。二人は家に戻るが、
カミーユは不機嫌な態度をとりつづけていた。苛立つポール。彼は何が彼女の
態度を豹変させたのか理解できなかった。脚本の依頼を保留していたポールは、
カミーユの反応で仕事を引き受けるか否かを決めることにした。彼は懐疑心に
取りつかれたかのように妻を試した。結局仕事を引き受けることにしたポールは
夜に劇場でプロコシュらに会う約束をかわす。外出寸前で、カミーユは夫である
ポールに向かって「軽蔑する」と怒る。困惑を続けるポールは、書斎に隠していた
拳銃を胸ポケットに忍ばせ、劇場へ向かう。

ポールとカミーユは、映画の製作スタッフに同行してカプリ島へと向かう。
船上で撮影を見学するポール。プロコシュは別荘に行かないかとカミーユを誘う。
カミーユはポールを見るが、ポールはカミーユに別荘に行くよう促す。プロコシュの
ボートに乗って別荘がある島へ戻る。妻の視線を気にも留めないポール。

彼は監督のラングと映画の脚本について話し合っていた。登場人物の性格についての
解釈が異なる二人。やがてポールは別荘に戻り、妻を探す。彼は窓際でカミーユが
プロコシュとキスをするところを目撃してしまう。ポールは脚本の仕事をやめることを
決心する。そうすることでカミーユの心が変わることを期待したが、カミーユの態度は
変わらなかった。彼女はポールに対する愛を失ってしまっていた。執拗に理由を問う
ポール。カミーユは心変わりの理由を死んでも言うことができないと語るばかりであった。

夫に対する置き手紙を残し、カミーユはプロコシュと島を離れた。彼女はローマで
タイピストとして生計を立てると決心する。そんな二人は自動車事故で帰らぬ人となる。
二人の死をまだ知らないと思われるポールも、島から離れる決心をし、撮影を続ける
ラングに別れを告げる。ラングは、映画の主人公であるユリシーズが故郷の方角の
海を眺めるシーンを撮っていた……。
















とても悲しい愛の物語であった。
映画の中で、ブリジット・バルドー演じるカミーユの心変わりの理由は
いっさい語られない。何が彼女を怒らせたのか、なぜ「軽蔑するわ」という
言葉を最愛の男性に放ったのか……。


だが、明確な理由は判らなくとも、カミーユの悲しみは、どうしようもない
怒りは観客に伝わってくる。愛する人に疑われれば、どんな人でも傷つかずには
いられないだろう。それがやがてポールを軽蔑するにいたったのだろう。


ミシェル・ピッコリ演じるポールはまるでシェイクスピアの「オセロー」のような
人物である。妻を深く愛しているにも関わらず、ふとしたことから彼女を疑うように
なってしまい、その果てに失ってしまうのだ――だが、べつにポールが悪いというわけではない。



どちらが悪いという問題ではないのだ。二人はささいな行き違いから永遠の
別れを迎えてしまっただけなのだ。ただ・・・思う。二人が素直にお互いの
思いを伝えられたら、この悲劇は免れられたのではないか、と。

人間は自分の感情を素直に表現できない。
この記事を書いている私自身がその例といえよう。
「素直になれたら、どんなに楽だろう?」と思うことが常にある。
けれども、そうはなれない。下手に色々な理屈を知りすぎたからか…? 他人に
馬鹿にされるのが怖いからか…? 判らない。とにかく、自分の気持ちというものが
うまく表現できない。素直でありたいと思う時に限って、その“反抗”は顕著だ。








私事について呟くのは馬鹿らしいや(苦笑)
映画のことに戻ろう。











「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」と比べると、本作は
実験的要素が少ないように思える。ブルーレイの特典映像の解説によると、
本作はハリウッド映画のような――つまりは王道の――手法で撮影したらしい。
衰退するハリウッド映画への警句のためというが、事実、この映画がつくられた
当時のアメリカでは、テレビ番組の台頭で映画界は衰退期にあった。
商業主義への先鋭化は映画が持つ文化的要素をどんどん削ぎ落していったのである。
(それがアメリカン・ニューシネマを生みだすというのはある意味で皮肉か?)
のちにゴダールは商業(“主義”)映画との決別を図り、政治路線を走るも、やがて
商業映画に復帰する・・・。


その点で――フリッツ・ラングを本人役で登場させたのも、面白い。
最初、彼が誰だか分らなかったが、ウィキで調べたところ――私は自分の無知を
自覚せざるをえなかった。







メトロポリス





SF映画の最高傑作。その監督がフリッツ・ラングであった。
私はこの映画を見たことがあるにもかかわらず、めちゃくちゃ有名な映画であるにも
かかわらず、その監督の名前を度忘れしてしまっていた……なんという愚かさ。。。










ブリジット・バルドー







主演のブリジット・バルドーはフランスのみならずヨーロッパ全土で人気の大スターで、
映画の製作陣はかなりの額をこの映画につぎ込んでいた。そのこともあって、本作は
他のゴダール作品に比べて実験的(前衛)要素が少なく、抒情的なのだ。








カリーナとは異なる魅力をはなったバルドー。たびたび映画に登場する
彼女の裸体は、まさにエロティックであった。それは彼女の肉体が美しいからであり、
撮影のラウール・クタールの技術の高さ、そしてゴダールの演出の妙が、エロスを
感じさせるのだろう。

(ちなみに、「気狂いピエロ」のブルーレイに収録されてたドキュメンタリー映像に
よると、「軽蔑」は末期にあったゴダールとカリーナの関係を取り入れているらしい。
ポールの帽子、カミーユの鬘がその象徴だという)









女優、台詞、映像、音楽――どれも美しい。
“美しい”という言葉はなんだか気恥ずかしいが、この言葉を素直に使わせてくれる、
そういう映画であった。

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Author:黒 紅 茶
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ブログタイトルの“Of”は
飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
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