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「世界が完全に思考停止する前に」

「A」「A2」を発表して以来、ジャーナリズムとドキュメンタリーの
世界でその名を聞かないことがないくらい活躍中の森達也。

彼の本「世界が完全に思考停止する前に」を読んだので、それについて記す。



本の内容:

地下鉄サリンや9.11、イラク戦争などの事件・戦争が起きる社会。
そこで繰り広げられる偽善と欺瞞の数々、広がる社会不安について、
ドキュメンタリー作家である森達也が考察した評論集。著者が様々な雑誌で
発表したものが集められている。
ネットでの評価を見ると、「反日」とか「左翼」といった
レッテルを貼られることの多い森達也氏。果たして彼は、
そのような人間なのか??? これは各人の判断に任せるとしたい。


彼がこの本で読者に問いかけているものはなにか? 私なりに考え、
ふたつの言葉を導き出した。それが下記の言葉である。



○主観の欠落



○想像力の欠落





まず、前者について。
マスコミ・ジャーナリズムの世界ではよく公平中立が求められる。
(ジャーナリズムのみならず、論文作りでもそうだ)

ドキュメンタリー作品においても、私たちの多くは中立の立場で
作られたものだろうと無条件で解釈することがおおい。

しかし、本当に公平中立なのか? そもそも何をもって公平中立とするのか?
ドキュメンタリーについての著者の返答はこうである。

カメラが介在する段階で現実は変容する。要するに誰だってカメラの前では
演技する。その変容した現実を、今度はフレームという恣意的な視点で切りとる。
この段階で既に、本来の事実は大きく加工されている。その加工品に編集という
取捨選択を重ね、インサート(カットの挿入)という手法で時系列を偽装し、
場合によっては音楽やナレーションでニュアンスを強調する。つまり(僕の定義だけど)、
現実の断片的な素材を材料に、あくまでも主観的に再構成された世界観の呈示が
ドキュメンタリーなのだ。事実を材料に紡がれたフィクションと言い換えてもよい。

(角川文庫版:P210)

ドキュメンタリーの主観性・客観性については「ドキュメンタリーは嘘をつく」という本に詳しい。






あらゆるものにはどのような形であれ主観性が入る。主観性とは、
極端に解釈すると“自分がある出来事等についてどう感じ、思ったか”ということである。

しかし、その主観性は今日の社会では失われつつある。
中立性(という名の同調圧力が)人の感性を支配しているのだ。
「社会が~」「世界が~」「周りの人が~」といったものが主語と化し、
肝心の自分自身の考えというものが出しにくくなっているのである。
……というより、そういった「自分」以外の主語を使ってあらゆることを都合の良いように
済まそうとしていると言ったほうが正しいかもしれない。

社会正義とか世界の平和というものはその最たる例だ。実際には、そのどちらも
何かを行うための方便だ――それも多くは邪悪な行為のために利用される。
行使する側のエゴ(ここでいう主観)は見事に方便によって隠されている。
アメリカが今日も続ける「テロとの戦い」はまさにこれに当てはまる。
殺人犯に対する裁判もそうではないか……?
(「オウム裁判」は森氏が他の著作でも記したとおり、裁判ではなく
最初から筋書きが決まった茶番劇であったわけだし)





そして、主観性の欠如が招くものは想像力の欠如である。
ここでいう想像力を簡単に言うと、

他人事を自分事のように捉えられるか?

である。



さいきん巷では「いじめ問題」が話題となっている。そこでは
加害者が絶対的な悪とされ、ネット上ではいじめ加害者の特定や
関連人物・組織への誹謗中傷が行われている。

いじめは許されない。だが、いじめを行った加害者を吊るしあげることも
加害者が行ったいじめと大差ないのではないか? ところが、その感覚がない。
逆に「当然のこと」とまでなっている。行為の余波というものへの想像力が
欠如しているのだ(次長課長の河本氏の事例もここに当てはまると思われる)。

加害者は一方的に“悪”として社会的抹殺を受けることになる。
それが今日の日本の状況である。

悪を叩くことは確かに気持ちがよい。でも被害者遺族は、敵を討ったからといって
救われない。なぜなら当事者にとっては、とてもつもない苦痛が伴う憎悪なのだ。
報復で溜飲を下げることができる非当事者たちの憎悪は、中世ヨーロッパで、
魔女と名指しされた人の処刑を物見遊山よろしく見物に来た人たちと共鳴する。
つまりは「その程度の憎悪」が、今の日本社会を覆っている。

(P182)

著者である森氏が死刑制度に反対の立場をとっているのは有名な話だ。
だが彼の理由は、「死刑が残酷だから」というような単純なものではない。
彼自身、いくつかの著書で「僕だって家族を殺されたら犯人を許しはしない!」と
述べている。彼は、死刑によって様々な問題が単純に解決されるのだろうか、と
問うているのである。結論を急ぐのではなく、問題について様々な角度から
考える必要があると訴えているのだ。

私たちは思慮深くあらねばならない。
とくに情報が氾濫する今日においては、ひとつひとつの
物事に対して冷静に対処しなければならない。


そして、ひとりひとりが自分が生きる社会に、世界に、時代に対して
コミットメント(あえて“意思表示”としよう)する必要があるのだ。
(サルトルのいう“アンガージュマン”を実践しろというつもりはないが……)

 間違いなく今、世界は壊れかけている。思考を停止しつつある。
その責任は、僕たち一人ひとりにある。なぜなら同時代にいるからだ。事後に
特定の誰かを論うための責任論は、空しいし意味がない。僕らはいわば、
この世界を破壊し続けることの共謀共同正犯だ。
 だって個人に何ができる? と反論されるかな。そんなことはないよ。
川が汚れたり森から木が消える理由は、一部の悪辣な権力者が利己的な
利益獲得に奔走したからではない。米軍がイラクに侵攻した背景には、
思慮の足らない大統領の判断や石油利権、ネオコンと癒着する軍事複合体の
権益保持だけが働いていたわけではない。オウムが地下鉄に無差別にサリンを
撒いたその裏で、日本征服の野望を持った邪悪な男たちが、高笑いをしながら
策を練っていたわけでもない。
 僕らは有機的なネットワークだ。僕らの同意のもとに世界はある。一人ひとりが
この世界に責任がある。

(P264―265)

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詳しくは「はじめに」を
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