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「沈黙」

今日は久しぶりにサンマルク・カフェで読書をした。
家よりも外出中の読書の方が集中できる気がするのだが他の人はどうだろか~?
まぁ、そんなことはどうでもいいとして。いつものようにレビューに入りたい。
紹介する遠藤周作の「沈黙」。早速あらすじに入る。



あらすじ:

島原の乱が鎮圧された日本では、キリスト教宣教師を送り込むポルトガルとの
交易が中断され、宣教師らは小舟で日本に潜入して布教活動を行っていた。
キリスト教を激しく弾圧する江戸・徳川幕府。日本を教化しようとする宣教師ら。
ある日、そんな日本から驚くべき報告がローマのイエズス会にもたらされる。
地区長として二十年近く日本で布教活動を行っていたリストヴァン・フェレイラ教父が
長崎で拷問の末に棄教を誓ったというのだ。それはあまりに衝撃的なことであった。
敬虔なキリスト教信者として知られ、多くの人から尊敬されていた教父が
どうして棄教をしてしまったのか――イエズス会の面々はその報告に耳を疑った。
フェレイラ神父の消息を探るため、布教の灯を消さないために、ローマから
三人の司祭が日本に派遣されることとなった。ロドリゴ、マルタ、ガルペの
若き三名である。彼らは中継地であるマカオに立ち寄り、そこで日本人の
キチジローと出会い、彼を案内人に日本へと向かう事にする。だが、マルタは
病気によって離脱を余儀なくされる。

小舟で日本に潜入を果たしたロドリゴ、ガルペ、そしてキチジロー。二人の
宣教師は酒びたりで臆病なキチジローの性格を見て不信感を募らせていく。
なんとキチジローは拷問に耐えかねて一度はキリスト教を棄教した男であった。
彼はそのために日本を離れ、マカオで暮らしていたという。

一行は長崎のある集落を訪れる。そこは隠れキリシタンの集落で、仏教徒を
装ってキリスト教をあがめていた。歓迎されるロドリゴらであったが、幕府の
監視の目を逃れるために司祭の活動にはかなりの制限が加えられていた。
二人の宣教師は、宣教師不在の間もキリスト教信仰を貫いた集落の人間たちに
尊敬の念を抱く。彼らは特殊な組織集団を結成し、そのなかでキリスト教を
進行し続けていたのだ。だが宣教師らは、そんな彼らの信仰にある違和感を覚えていた。

あるとき、何者かの密告によってキリスト教宣教師が日本に潜入したことが
幕府によって知られてしまう。ロドリゴらが匿われていた集落では村の代表格が
人質として捕えられてしまう。キチジローと集落の人間二人が人質となった人物を
引き取るために町へ向かったところ、彼らは幕府の人間によって尋問にかけられ、
逃げ延びたキチジローを除く二人は処刑されてしまう。幕府はそれに留まらず、
宣教師を捕えるために周辺の捜索を開始する。ロドリゴとガルペは逃亡を余儀なくされる。

別れて逃亡することとなったロドリゴとガルペ。ロドリゴは途中でキチジローと
再会する。ロドリゴは、キチジローが密告者ではないかと疑い始める。彼は
キチジローのなかに、イエス・キリストを裏切ったユダの存在を見出していたのだ。
やがてロドリゴはキチジローの密告により幕府に捕えられてしまう。
キリスト教徒による反乱「島原の乱」が起きた長崎の地で、連行されるロドリゴに
向かって群衆は蔑みの言葉や石などを投げつける。

囚われの身となったロドリゴに棄教を迫る幕府の役人たち。幕府大目付・宗門改役の
井上筑後守は、キリスト教布教の無意味さや、西洋と日本の思想的断絶の問題などを
ロドリゴに語りかける。抵抗を続けるロドリゴ。そんな彼に告解をしようと、なんと
キチジローがあらわれる。ロドリゴや幕府の役人たちは、そんなキチジローの行動が
まったく理解できないでいた。その間も幕府はロドリゴの説得を続ける。

ロドリゴは幕府の人間によってある場所へと連れて行かれる。そこで彼が目にしたのは、
同じく囚われの身となったガルペと、海で処刑されようとする日本の信者たちの姿で
あった。ただ見ているだけのロドリゴに対し、ガルペは信者を助けるべく行動を起こす。
ところがガルペは死に、信者も海に落とされ命を落とす。必死に神に祈っていたロドリゴは
無力感を得ると同時に神に対して不信感を抱くようになる。幕府の役人たちは、
宣教師の行動が日本のキリスト教信者を救うどころか逆に死へと追いやっている矛盾を
激しく責め立てる。その事実に対して反論できないロドリゴは、精神的に弱っていく。

ロドリゴは長崎奉行所で、かつての師であったフェレイラ教父と再会を果たす。
棄教したフェレイラは沢野忠庵と改名して幕府に協力を誓っていた。ロドリゴは師の
心変わりに衝撃を隠せない。フェレイラはロドリゴに棄教を迫って来たのだ。
フェレイラは、日本にキリスト教が根付かないのは幕府の弾圧が問題ではなく、
日本の精神的風土にそもそもの問題があることを語る。だが、ロドリゴはそれらの
言葉を信じる気になれなかった。幕府の役人たちも必死に棄教を迫るが、ロドリゴは
信仰を守ろうとする。だが、そんな彼の心は限界に近付いていた。

牢に閉じ込められたロドリゴは、自分が信仰を守り続けるために日本人の信者が
激しい拷問で苦しんでいる事実を目の当たりにする。ロドリゴは信者を救うために、
棄教という重い決断を選択し、踏み絵を行う。

精神的に摩耗したロドリゴ。彼は棄教という選択に至りながらも自らの心に
キリスト教の精神があることを自覚する。そんな彼に、キチジローはなおも許しを
求めてあらわれるが……。












本作は信仰をテーマとした歴史小説である。
登場人物も何人かは実際に存在した人物であり、けっして架空の物語ではない。

物語は、主人公であるロドリゴ司祭の日本潜入から棄教までを描いている。
ロドリゴは神にずっと祈り続けるものの、そんな彼に訪れるのは数多くの悲劇。
仲間を失い、信じていた人間たちに裏切られ、棄教という選択を強いられる。
棄教とは、それまでの生涯の全否定でもある行為なのだ。ロドリゴは生きながらえたが、
彼の精神は棄教によって死んでしまったのである――少なくとも表面的には。




ロドリゴは救いを唱える。だが、彼のために多くの日本人信者が拷問の末に殺されていく。
その時間経過のなかでロドリゴの心は摩耗していく。

一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、
先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。
なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が――あなたのために――死んだと
いうことを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。
蝉の音。愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。
それが……耐えられない。
 キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)漸く唇を震わせて祈りの言葉を呟こうとしたが、
祈りは舌から消えていった。主よ、これ以上、私を放っておかなえいでくれ。これ以上、
不可解なままに放っておかないでくれ。これが祈りか。祈りというものはあなたを讃美する
ためにあると、長いこと信じてきたが、あなたに語りかける時、それは、まるで呪詛のための
ようだ。嗤いが急にこみあげてくるのを感じる。自分がやがて殺される日、外界は今と全く
同じように無関係に流れていくのか。自分が殺されたあとも蝉は鳴き蝉は眠たげな羽音を
たてて飛んでいくか。それほどまで英雄になりたいか。お前が望んでいるのは、本当のひそかな
殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒たちに讃めたたえられ、祈られ、あのパレードは
聖者だったと言われたいためなのか。

(新潮文庫版:P153―154)


直接拷問を加えられることのないロドリゴ。だが、彼の代わりに日本人信者たちは
殺されていくのである。

彼は人々のために死のうとしてこの国に来たのだが、事実は日本人の信徒たちが
自分のために次々と死んでいった。どうすれば良いのか、わからない。行為とは、
今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、
はっきりと区別できるものではなかった。

(P170-171)

ロドリゴの目的は布教によって日本人の心を救うことであった。ところが、日本人の
信者たちはやってきた宣教師の命を守るために自らの命を犠牲としているのである。
この究極ともいえる矛盾をロドリゴに叩きつける。

幕府の役人たちは、キリシタンの棄教よりも宣教師たちの棄教が最重要と認識していた。
そして彼らは、キリスト教を危険思想と認識していた。彼らにとって、キリスト教は
西洋支配の種なのである。だが、そのキリスト教を弾圧する――本作の悪役ともいうべき
井上筑後守が棄教者であるというのは何たる皮肉だろうか。


日本人信者らの死を見せつけれるなか、ロドリゴのキリスト教信仰はどんどん揺らいでいく。
そんな彼の前に姿をあらわすのが行方不明であったフェレイラ教父。その彼は、布教活動の
無意味さをかつての教え子であるロドリゴに向かって説く。

「切支丹が亡びたのはな、お前が考えるように禁制のせいでも、迫害のせいでもない。
この国にはな、どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ」

(P195)

この言葉は、日本のキリスト教信者と初めて対面したロドリゴが感じた違和感を説明する。

歴史で日本の文化の変遷を学んだ人にはいうまでもないことだが、
現在まで残る日本の文化の多くは海外からもたらされたものである。
最たる例は仏教だ。これは中国、さらに源泉はインドである。
日本の仏教は中国やインドから学んだ仏教のエッセンスを大幅にアレンジしたものである。
ほかにも国家制度や食べ物など、それらは輸入品である。ただ違う点は、輸入品を
そのまま使うのではなく、大幅に改良していることだ。
日本の文化は“コピー&アレンジ”によって作られていったと言っても過言はないだろう。

そんな日本の精神風土に対し、キリスト教の持つ精神風土は“教化”である。
悪い言い方だが、ようするに自分の思想の正しさを押し付けているのだ。
ローマ帝国がキリスト教を吸収して以後、キリスト教が世界に何をもたらしたかを見れば、
そのことも分かるだろう。十字軍遠征、アフリカ大陸および南米大陸の支配…。これは
キリスト教の精神風土というより、西洋人の持つ選民思想的なものともいえる。
そのような風土と日本の風土が合うはずがないのである。だから日本は拒絶したわけだ。

物語序盤におけるロドリゴらは、布教の使命を背負ったヒーローのようにも思えるが、
見方を変えれば彼らは侵略の方棒を担ぐ人間でもある。井上筑後守は悪魔的存在ともいえるが、
彼は国家のために従事した人物に過ぎないのかもしれない(まるでアイヒマンだ)。





苦悩をするロドリゴ。そんな彼を裏切りながらも執拗に許しを求めるキチジローは
いったい何者なのだろうか。


この物語の最後のくだりは、映画「ロッキー」でいう“負けて勝った”というような
構図のようにも捉えられるが、残念ながらロドリゴは悲しき敗北者である。
彼はイエス・キリストの声を聞くが、それらは最後の“良心の砦”ではなかろうかと思う。
そんなロドリゴに最後の最後まで許しを求めるキチジローはまさにユダである。だが、
彼を決して悪人として断じることはできない。彼もまた被害者なのである。と同時に、
実はキチジローもロドリゴもその立つ位置は同じなのである。誰がいつ、どちらの
人間になるかなんて分かりはしないのだ。そんなキチジローは最後どうなったのか?
それは本を手にとって、是非読んでもらいたい。

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飾りです。偉い人にはそれが
分からないのです(苦笑)
詳しくは「はじめに」を
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