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「009 RE:CYBORG」についての考察

前回の記事で宣言したとおり、今回は「009 RE:CYBORG」に
ついて考察したいと思う。





1:原作のストーリーについて

前回のブログでは、
「サイボーグ009」の初心者には今回の映画は難しいのではないか、という
旨を記した。そこで、原作のあらすじについて、まずは読み説きたい。

イワン・ウイスキー、ジェット・リンク、フランソワーズ・アルヌール、
アルベルト・ハインリヒ、ジェロニモ・ジュニア、張々湖、グレート・ブリテン、
ピュンマ、島村ジョーの9人が『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』に改造される物語から始まる。
戦争を商売にする死の商人『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』は未来戦争計画と称して、
世界各地から研究者を集め、実験用モルモットのため、世界各地で人間狩りを開始し、
改造人間の開発に着手する。各サイボーグ戦士は、幽霊島に連れ去られ、サイボーグに改造される。
009島村ジョーは、サイボーグ化手術を終え、最終テストを切り抜け、
『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』に迎えられる。かねてから、恐ろしい計画に
気付いていたギルモア博士は、他のゼロゼロナンバーサイボーグと脱出計画を試みる。
そして、ゼロゼロナンバーズが『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』に銃を向けた瞬間から
009たちの長い戦いが幕を開けることとなる。

基地から脱出しようとするサイボーグたちは、巨大ロボット兵器や戦闘機、ロボット兵、
恐竜ロボットが追われるが、それぞれの能力を活かし、敵をなぎ倒して進んで行く。
敵の懐から脱出しようとする寸前、001は「『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』を倒さない限り、
平和が訪れることはない」と断言する。そして、サイボーグたちは脱出したばかりの
『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』の基地へ引き返し、激しい戦いの末、その基地を壊滅した。
しかし、その基地は『黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)』の拠点のひとつに過ぎなかった。


(「サイボーグ009」公式サイトより引用)
http://009ing.com/index.html




9人のサイボーグが、
平和のために、自分たちを改造した死の商人ブラックゴーストに戦いをいどむ。
これが本作のあらすじである。この物語構造やテーマ性は同作者原作の「仮面ライダー」や、
「人造人間キカイダー」とも共通しているように思える。
サイボーグの悲哀や、正義の矛盾、果てなき人間同士の争い……。それらは作品がつくられた
当時の時代背景――東西冷戦や安保闘争などの混迷期――も大きく関係している。






「誰がために」

テレビシリーズ第2作目(監督は高橋良輔)の主題歌で、
作詞は原作者である石ノ森章太郎によるもの。
この曲はまさに“テーマソング”とよぶにふさわしい内容である。
ここにサイボーグ戦士たちのすべてが語られているといっても過言はないだろう。


主人公たるサイボーグ戦士は、やがて宿敵であるブラックゴーストを滅ぼす。
しかし、彼らの戦いが終わることはない。ブラックゴーストは氷山の一角に過ぎず、
真の敵は人間のなかにある飽くなき欲望であった。物語のなかで、サイボーグ戦士たちは
何度も苦悶する。それはまさに、冷戦終結後の時代を生きる私たちの姿ではないだろうか?
「民主主義VS共産主義」という構図は崩壊した。
結果、訪れたのは無差別テロや民族紛争などの数々……。それらを食い止める手段というものは
いまのところ存在しない。

そんな今日に、「サイボーグ009」は「009 RE:CYBORG」として復活したのである。







2:「009 RE:CYBORG」の世界観

かつての原作がその当時の社会背景を反映していたのと同様、
本作も今日の社会状況が大きく関わっている。
そのキーワードといえるものをふたつほど挙げてみる。


ひとつはサムエル・キャピタル社なる巨大企業(=資本主義)。
この企業はアメリカ政府と結託して世界に戦争を起こそうとしている。
そのさまは、今日の戦争を支配するといっても過言はない「民間軍事会社」のようである。
かつて、いわゆる死の商人というものはあくまで第三者的な立場であった。ところが今日では、
その死の商人がみずから国家の軍隊の代わりに戦場におもむくようになっているのだ。
(けっこう、ザックリと述べているので細かい点は若干異なるが・・・)
サムエル・キャピタル社とは、資本主義という怪物が国家や戦争というものすら
干渉するような存在になったことをあらわしているのかもしれない。


もうひとつは(あとで詳しく考察するが)“見えない敵”の存在。
かつては民主主義と共産主義という大きな対立軸があった。
人々はそのどちらかをよりどころにすることができた。
ところがそれがなくなったことで、人々はよりどころを失った。

ボーダーラインの消失(レス)。
体制からの自由化がもたらしたものはカオスである。
体制が「機能」していたころには抑え込まれていた個々人の欲望が、テロリズムや
“壮大”なマネーゲーム、民族紛争へと暴走をはじめたのだ。それを抑え込む術はない。
いつどこで、なにが暴走するか分からない。

いつ隣人が自分の敵になるか分からない時代――それが今日。
私たちの“敵”は、巨大な体制というものから、
私たちの心の中にある欲望という“見えない敵”へとシフトチェンジしたのである。
“見えない敵”の存在によって、振りかざすべき正義というものも大きく揺らいでいる。
物語には死体サイボーグなる敵兵がでてくるが、これもまた、戦うべき思想をもたない存在だ。

かつて世界平和のために戦ったサイボーグ戦士たちも、正義を振りかざすべき敵・悪を見失ってしまった。
そのために彼らは世界平和のための戦いをやめ、自らの故国にもどっていったのである。







3:“彼の声”

そんなサイボーグ戦士たちは、“彼の声”によって引き起こされる連続爆破テロを前に
、再結集を果たす。作品を最後まで見ても、この“彼の声”の正体や、
それと関連するであろう“不思議な少女”の正体が判明することはない。

物語の中盤のおいて、“彼”とは“神”かもしれないという解釈がなされ、
最後のジョーの咆哮も、「“彼”=“神”」に対して向けられている。
ここからはその考察に入りたい。




4:なぜ、高層ビルが狙われたのか?

“彼の声”はどうして人々に高層ビルを破壊させていったのか?
おそらく、これは旧約聖書における「バベルの塔の物語」と関係するのではないかと思う。
この物語における人々は、バベルの塔を作って天を目指していた。
神はそれに怒り、人々の言語に混乱をもたらした。お互いの言語の意味が分からない人々は
建設をやめてしまったというのが簡単なあらすじだ。
それと同じく、本作の(キーワードである)“彼”も、高層ビルを建築する人々の
おごりに怒ったから特定の人に命じて爆破テロを引き起こしたのだと考えられる。
また、神話的な意味性とは別に、科学文明や近代への批判としても読み解くことが出来る。
巨大高層ビルをつくるためには莫大な予算と同時に、それをつくるための優れた技術が必要になる。
巨大高層ビルというのは資本(主義)と(科学)技術の象徴ともいえる。
その建設の弊害としてあらわれるのが、自然環境の破壊であり、人間間の格差である。
高層ビルの破壊とは、それに対する否定(アンチ・テーゼ)としても読み解けると思うのだ。



5:傲慢な“神”

だが、その否定にも代償がある。ドバイの場面における核爆発による都市壊滅はその象徴だ。
否定によってもたらされるジェノサイドは果たして肯定されるべき行いなのか?
004の解説は面白い。彼がいうとおり、神というものはどの神話においても
ジェノサイド(大量虐殺)を行っている。神が正しく、悪魔が間違っているというが、
神こそ悪魔的存在といえるのだ。そして神は、ジェノサイドをほとんど自らのきまぐれに
よって行っている。物語における“彼の声”によるテロも、
そのきまぐれによるものだというのだ。

当然、サイボーグ戦士たちはそれを許そうとはおもわない。だが、絶対的な存在を前に、
彼らには戦う術がない。004は、「神は人間の脳に宿っている」という旨の解説も行っている。

“彼の声”とは、存在するかもしれない神によるきまぐれと捉えることもできるし、
人間のエゴイズムの象徴と捉えることもできる。
後者の場合、傲慢なのは神ではなく、人間ということができる。

だが、どちらにしてもサイボーグ戦士たちにはどう戦えばいいか分からないのである。
それでも、彼らは世界の危機を見捨てることが出来ない。それは彼らの悲しき宿命ともいえる。



6:天使の化石

本作の神話的イメージをつくるものが“天使の化石”と“不思議な少女”の存在だ。
だが私は、これらを「不条理な世の中を逃避するためのツール」という風に見た。つまり、
神話的イメージに逃げ込むことによって現実がもつ不条理かつ残酷な惨状をいくらか
和らげるための要素ということだ。

それは江戸時代において激しい弾圧を受けた隠れキリシタンらが
「これは神が与えし試練だ」といったことと似ている。
神や宗教というのは、基本的にはそういうもの――クッションの役割を持つ――ものなのだ。
(と同時に、権力者が人心を束ねるための要素ともなっているわけだが)

作品においては、(サイボーグ戦士たちの)自己犠牲の象徴とみることもできる。
ラストに出てくる月も、そういう意味を為していると捉えることもできる。

これらのことを考えていくなかで私はある作品で語られたテーマを思い出した。


幸せは犠牲なしに得ることはできないのか?



世界のいたるところで今のリアルタイムで虐殺や紛争が行われている。
にもかかわらず、それについて私たちはどれだけ考えているか。
私たちの多くにとって、それらは他人事である。遠くの出来事に過ぎないのだ。
この私たちというのは――とくに日本人をさす。日本は太平洋戦争によって深く傷ついた。
しかし、その記憶は忘れ去られようとしている。
そのとき多くの日本人が感じた痛みを、現代人は受け継いでいない。

痛みとは肉体を刺激するものだけを示す言葉ではない。
それは戦争に対する痛みだ。リアルな痛みともいえる。

私たちがいきるこの世界は、多くの人の死のもとに存在している。
しかし、それについて思いはせる“とき”をわたしたちのほとんどがもたない。

本作は、「見知らぬ誰かの犠牲の下で世界が成り立っている」ということを
言いたがっているのかもしれない。







7:謎のラスト

本作のラストについて、私はこう考察する。それは、
「死にゆく009がみた幻想」と。つまり、
009・島村ジョーは002・ジェットとともに死んだのだ。

009は幻想をみることによって、自らの行いの正当化を果たした。
と同時に、観客にたいしても救いをもたらそうと試みたのだ。
009が幻想をみなければ――あのシーンがなければ、ただの自己犠牲でかつ
救いのない物語として完結してしまう。

そうしないためには、あの幻想(文字通り!)が必要だったのだ。

「人類共通の正義をなせ」とか、「人類をやりなおす」とかいうのは、
その根底にある犠牲を隠すものである。人々は犠牲という痛みをしってこそ、
自分に立ち返ることができるのだろう。









とまあ、考察めいたものをやってみたが、
本作を「宗教映画」として切り捨てることも不可能ではないほど、
宗教的モチーフが多すぎる。それらは漠然としている。
だがそれゆえに様々な解釈が可能なわけだから、
見る人によってかなり評価が別れる作品であることは確かであろう。







てことで。

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飾りです。偉い人にはそれが
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詳しくは「はじめに」を
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